小説の読み そのに

 前回からの続きになります。“教訓読み”ができた上で到達する次の段階の読み方、という話です。

 実は、人間は日常会話や、メール等での文章コミュニケーションにおいて、ある程度までなら状況を優先して話を読み取っています。そこにかなりの違和感がない限りは、多少間違ったことを言われても補正して理解できる能力があるわけです。「雨降ってる?」「外出たら死ぬかも」という会話があれば、外は豪雨である、と理解できますが、厳密に読むと話は通じていないですよね。問いかけを字義通りに読むと、これについての答えはイエスかノーしかない。答えも「死ぬほど」という慣用的比喩を知っており、会話者の関係が親しいという前提がないと成り立たない。この例でももうわかってもらえたと思いますが、これだけですでに二種類の読みが存在しています。会話が成立していないという読みと、会話の二人が親しい上に今は豪雨という読み。当然、高レベルな読みは後者ですが、きちんと小説を読むというのは、そういう一足飛びに理解してしまうような回路を遮断して読むことです。

 この説明で、そんな馬鹿な、と感じてしまう人のために、再び“教訓読み”の話をしましょう。一般に小説が教養とされるようになってから、文学作品はその教訓が要約される傾向にあります。『吾輩は猫である』は「動物の視点から人間の滑稽さを風刺した」ものと紹介されますし、カフカの『変身』は「人間が直面する不条理を明らかにした」もの、と教訓読みは教えてくれます。そういうまさに“教訓”と、先程の類推は同種のものだとお気づきになるでしょう。一般に頭が良いとされる読み方は、実際には文章に書かかれていないことを読み取っているのです。

 そして、前回述べたように、そういう読み方は当然できなければその先にはいけません。その上で、否が応でも発生してしまう教訓や憶測を排除して厳密に読む。一文一文、そのまま字義通りに読む。つまり、二度読むことになるわけです。そうすることで小説が構成している世界を自分だけのものとして見ることが可能になる。前々回で書いた“バグを出す読み方”ができるようになるのです。

 実例として小島信夫『馬』の冒頭を引用します。

 

 僕はくらがりの石段をのぼってきて何か堅いかたまりに躓き向脛を打ってよろけた。僕の家にこんな躓くはずのものは今朝出がけにはなかった。今朝出がけではなく、今まで三年何ヶ月のあいだにこんな障害物はなかった。これはいったい何であろうかと思ってさわって見ると、材木がうず高くつんであるのだ。それに手ざわりによるともうその材木には切りこみさえしてある。僕の家の敷地に主人である僕に断りもなしにいったい誰がこんな大きな荷物を置いて行ったのか。それにしても材木は家を建てるべき材料だから、誰かがこれで以て家を建てるにちがいない。家を建てるとすれば、ここから五粁も六粁もはなれたところに建てるはずはない。建築者はこの近所に住んでいるのか、住もうとする人にちがいはない。いったいその本人はどこの誰で、何のために僕の家の敷地に置かねばならないのか。

 

 これを読んでみましょう。まず完全に小説に慣れていない人の読みをしてみましょう。

「主人公が材木を自分の家の敷地に見つけた。なんのためだろう?」

 この読みでしょう。そのくらいの読みでもストーリーを楽しむことはできます。では、次に教訓読みをしてみましょう。

「主人公は材木を家の敷地に見つけ、そのせいで自分を中心とした世界が脅かされるのを感じている。建築や家というものにこだわりすぎているし、自分が主人であることにわざわざ言及していることからそうわかる。さらに現実にはありえないであろうことが書かれているし、主人公の思考も不自然だ。これは家を自分と同一視して、それを侵害される恐怖を夢として不条理に描いたものだろう」

 なかなか読み取っている感じがします。そして、おそらく間違ってはいない。国語のテストなら満点かと思われます。これらの読みを踏まえた上で先に行きましょう。

 それでは、逐一読んでいきます。

「僕はくらがりの石段をのぼってきて何か堅いかたまりに躓き向脛を打ってよろけた……。石段を登れる程度には明るい? しかし、何か堅いかたまりにスネを打った。ということは、見えていない。慣れているから登れた? 確かに三年以上住んでいることはハッキリしている。だが、それなら明かりが設置されていないのはおかしい。さらに、手ざわりによるともうその材木には切りこみさえしてある、とある。彼はどうも材木についてわかりすぎているようだ。わざわざ明かりを無くしてあるのに材木について描写されているということは、字義通りに読むと、主人公は見えていないものを見ているということになる! それは後の家と主人についてのこだわりからもはっきりしてくる。そもそも石段もあるし、前兆なしでの材木の持ち込みはほぼ不可能ではないか。やはり、主人公は自ら見たいものを見ている。では、これは夢のようなものなのか? いや、夢だとは本文中に書いてはいない。とすれば、材木は(常識的には不可能だが)現実に持ち込まれ、主人公の敷地の内に何者かが家を建てようとしているのだ。そして、それは主人公の不安でもあり、望んでそう見ていることでもある。主人公はすでに一段目にして、自らを脅かし、崩壊させるものを実体としてハッキリと見てしまっているのだ!」

 いかにもねちっこく読めていると思います。重要なのは、文章に書いてあることはすべて字義通りにそう起こっているのであり、書いていないことを読んではいけないということです。「明かりが設置されていないのはおかしい」というのは類推ですが、それは「明かりについて書かれていない」ことを再確認しているわけです。

 二度読む必要があるというのもおわかりいただけたかと思います。類推が働いていなければこの冒頭をよくわからないことが起こっている。と感じられませんし、文章を逐一読めなくては「なんだ夢の話か」で終わってしまい、この小説を自らの目で味わうことができません。

 このように読むことで、小説は作者の意図を越えて“そこに存在するもの”として読めるわけです。小説は、すべてが作者の頭の中にあるのでなく、文章化されたことで、バグもあるプログラムとして走り出し、“バグ=そう読めてしまう”ことが作者の意図を越えて起こる。もちろん、作者がその後にバグを利用する、あるいはバグを意図的に起こす、さらには他の作家もバグを基本プログラムに組み込む、ということが小説業界では起こっているのです。

 すぐれた小説はこのように冒頭から世界そのものをあっという間に創造してしまいます。そして、それがしっかりと読めることが快感をもたらしてくれる。とはいえ、このような読み方に耐える小説は少数です。それは前回書いたように“教訓”を介さないと広く読まれるものにならないからです。“教訓”を絶対的に良いものだと思ってそれしか書かない有名作家もいますし、そもそも映像化される小説という流れにおいてこだわるべきはキャラクターやストーリーであり、それは小説の読み方とはそれほど関係のない技法です。

 読み手としても、このような読みを行うと一冊の読了にものすごく時間がかかることになります。さらにそのような読みができない小説がつまらなくなります。「ページをめくる手がとまらなくて一晩で読んだよ!」と熱く語る友人に「二度読む必要のないストーリーだけの小説ってことね」などと感じてしまうことは、明らかに良いことではないでしょう。

 次回、そのようなことを踏まえて小説の読みの周辺について語れたらと思います。