小説の読み そのいち

 先だっての日記が少しヒット数が多かったので、気を良くして続きでも書くかと思い立ったものの、前回の話はいわば終着点みたいなものであり、そこから先はこれからずっと考えていかねばならないことだったと気づいた次第です。

 そんなわけで、それより前段階、つまり「小説なんて読めばいいんだから読み方なんぞ必要ない」という人だったり「ラノベは小説じゃない。人生についての深い考察がないから」という人、あるいはそれらになんか反感はあるんだけど、うまいこと言えないあまり「ラノベも文学も等しく小説で楽しみ方もそれぞれ」みたいな結論に至っちゃう人に向けて、文学評論用語なんぞを使わずに、ざっと橋渡し的に“小説の読み方”について書いていければいいかな、と思いたちました。

 さらに、最近、私が自分の小説スタイルを見失い気味であり、自分が何を考えていたのか整理しておこうと思ったというのもあります。

 さて、まず前提として、小説の読み方は自由です。そりゃそうだ。でも、こんな話をする必要があるのは、小説を読んだ人はそれを題材にしてコミュニケーションすることもあるからなんですね。聖書を小説と言っている人もいましたが、聖書の読み方は……あんまり自由じゃないというか、自由に読むと各所から殴られたりするわけです。小説の読み方は自由なようで、やっぱり世間に縛られている。聖書みたいに大きな話でなくとも、なろう小説とラノベと一般小説なんてのはその分類に大きく世間のなんとなくの意見が反映され、差別的な言説も散見されるというあたりでわかってもらえるかと思います。

 ならば小説は世間が読むように読めばいいのではないか? それも実は間違いではありません。しかし、それだと小説を読まなくても感想にたどり着けることになります。そして、そういう読み方は割と世にあふれています。それらをここでは“教訓読み”と呼びましょう。世間では文学的な小説は役に立つものと考えられてり、どんな教訓を学び取れるかが大事であるというのが大勢だからです。ライトノベルをキャラクターで読んだり、なろう小説を異世界転生からの成功譚ととらえるのも、“教訓読み”です。これらの小説では教訓などなく、そのような売りで書かれたものと世間で思われているからです。この“教訓読み”はお気づきの通り、小説を読んだことにはなりません。世間の空気を読んだだけのことです。

 ただ、問題となってくるのは、この“教訓読み”に対応するかのように、“教訓書き”とでもいうべき小説が存在することも知っておかなくてはなりません。その時の社会にもの申すために書かれた小説は、歴史上多々あります。近年ではソビエト時代には労働英雄を称えるために書かれた小説があり、もっと最近の日本では中国韓国の政策と日本国内過激派を揶揄するために書かれた有名小説家の作品のようなものもあります。ライトノベルは政治的でないからといってこれから逃れられるものではありません。エンタメ小説では、流行の要素を列記するために書かれたものなどが、この“教訓書き”です。

 お気づきの通り“教訓読み”と“教訓書き”は、世間が変化すると変化していきます。が、読みはまだしも、書きは時代が変わってもうっかり残ってしまう。そうなると、もうどう読んでも理解できない小説が誕生してしまうことになります。時代の変化だけではありません。翻訳して国外に出されたなら、まったく別の理解のされ方をしてしまうものも出てくる。極端な例をあげれば北朝鮮の作品(映像作品しか簡単には見られませんが)などは、指導者を称える目的で作られたものの、我々は笑いと恐怖しか感じないわけです。

 ライトノベルとて同様の現象は起きており、作品にはその時の流行の要素が色濃く、しかもそれが先行ライトノベル作品へのアンサーとなっている場合が多々あるため、先行作品を知っているコミュニティでないと作品は受容できないという現象があります。
こう分析してみると“教訓読み・書き”は悪なのかと思ってしまいます。が、最初に述べた「小説を介してコミュニケートする」行為のためには絶対に必要なものだと理解しなくてはならないでしょう。批評家や思想家、あるいはそれに半端に影響されてしまった人は、特に“教訓書き”を軽蔑しがちです。しかし、それがないと誰に向けた文章なのかわからないし、逆に読める人間を絞っている作品になってしまうことになります。昨今では「ライトノベルのタイトルが編集者によって長文にされてしまう問題」や「作者がタイトルを伏せて『〇〇が××する話』としてTwitterにあげて宣伝する問題」などは、わかりやすさへの軽蔑と閉じたコミュニティへの嫌悪が根底にあると考えることもできます。

 逆に“教訓書き”では到達できない地点にあこがれる気持ちは忘れてはならないとも思います。時代や世相が移り変わっても誰にでも読めて感動できる小説。それに重きをおくのは自然なことです。ですが、そういう小説がもしあったとして、それを読むことは困難が伴います。先程書いたように誰にでも読める小説は誰に向けたものかわからないし、訓練しないと読めないからです。

 個人的には“教訓読み”は小説においては「さらっとできて当然」の読みだと考えています。その読みができた上で、それ以上の読み方を訓練しないといけない。そうでないとバグ出しのような読み方はできない。なんか大変そうですが、修行というよりゲームがうまくなる。先日の例えを使うなら格ゲーがうまくなる程度のニッチさと楽しさがある、と言い換えるとそんなに重大なことではありません。

 しばらく後、バグ出しをする読み方についてまとめたいと思います。