小説の読み そのさん

 小説が読めたからといって何になるのか?

 ある程度読める人間に聞けば「それは趣味に過ぎない」という結論が驚くほど速く出てくることでしょう。実際、ここで紹介した小説の読みは、小説が構築する世界を鑑賞するというものですから、それができようとできまいと生活にはほとんど影響はありません。まさに格ゲーをやり込みすぎた人だけが見る世界と同じで、小説を詳細に読み込むことは一部の人しか面白がらない行為です。ナボコフが大学で文学の講義を行った際のテキストを書き起こした本がありますが、これにジェイン・オースティン作品の舞台の地図やカフカ『変身』の虫と部屋の見取り図などが書かれています。そこまでして読むことが趣味以外のものであるとは思えません。

 しかし、こうした読み方ができる作品かどうかは、大きな意味を持ちます。それができるのは、文章により作品世界が構築されており、文意が明快で一意に決定するはずの文章がストーリーにより多義的になる、ような作品だからです。映画原作でなく、戯曲でなく、詩でもなく、そのどれでもあるという半端な存在である以上、小説が小説として読める条件は、上記のものになるはずです。

 それは私の小説観にすぎないかもしれませんし、人により様々な「小説でなくてはいけないこと」があるでしょうが、ともかく、小説を小説として読むことは、不確かで、それこそバグった瞬間にしか立ち上らないような、か弱く、はかない、そして趣味でしかないものです。私の見解に反対の人も、そこだけは同意を得られるものと思います。同時に、そのように「小説でなくてはいけないこと」を考えた時、その内実がなんであれ、それは“教訓読み・書き”にあっては実現できないことも同意をいただけるでしょう。

 もちろん、そのような小説のあり方と“教訓読み・書き”が共存できないわけではありません。それらは別のものであり、対立するものではないからです。ただし、“教訓読み・書き”の背後にある「実用的(売れる&キャッチー)であるべし」という呪縛は、それを対立ととらえてしまいがちです。「売れる≠文学的」のような考えは(あるいはその逆も)貧しいだけでなく、そもそも間違っています。

 この実用的であるべきという呪縛を乗り越え、趣味を趣味として維持するために、小説でなければいけない小説の数が増えることこそが、誰もが小説を書ける世の中になった今こそ必要とされているのでないか。私はそのように考えています。現状では、ですが。