物語=バグ論

RTAにおけるバグ

 ゲームのプレイスタイルに、RTAというものがありまして、これはゲームスタートからクリアまでの時間を競う遊びです。Tの前にRがつく(Real Time)ことから分かる通り、ゲームを中断せずにクリアするまでのタイムを競うものですので、RPG等、長いゲームの場合、バグを利用することが多くあります。

 このバグ利用、一見すると不正とみなされそうですが、ゲームソフト、及びゲーム機器が正規品であり、かつ再現性のあるバグであるならば、認められるばかりかバグ発見が讃えられることが多くあります。

 しかし、このバグに再現性があるという部分はイコール「バグの仕組みが公開される」ことと同義です。かつて、ゲームセンターでシューティングゲームのスコアアタックが盛んだった頃、バグ利用のスコアが問題になったことがありました。よくまとまっているのは下記の記事です。

automaton-media.com

 今回、このことを取り上げたのは、小説の価値は売り上げ(閲覧数)にしかないのか? それ以外の価値もあるのではないか? 売り上げを伸ばすために自分のやりたいことや読者が本当に望んでいないことまでやる必要があるのか? という問いに対するヒントがあるように感じたからです。

 RTAにおけるバグは上記のようなものですが、次はeスポーツにおけるバグについて見ていきましょう。こちらは少し性質が違います。

 

eスポーツとスポーツにおけるバグ

 昨今eスポーツとして対戦ゲームが取り上げられる機会が増えています。これらはゲームですので、バグはつきもの。特にゲームシステムそのものにバグに等しい不平等を抱え込みやすいカードゲームや格闘ゲームは、バグ修正はもちろん、調整と称するカードやキャラクターの技の強さを事後的に変更することは当たり前になっています。

 ですが、バグ修正前であれば、そのバグはいわば使い放題ですし、強い戦術やキャラクターを使わないことは勝敗を競うという前提を覆しかねません。スコアアタックでそうであったように「知られているバグは使い放題」であるのです。これは一見するとゲーム文化に独特のものに思われますが、実はスポーツ全般にも見られる事象です。各スポーツの協会がルールや使用器具をいきなり変更した例は、スキージャンプや柔道、F1などいくつもあります。柔道においては、その昔、レスリング的なタックルを「両手刈りである」と主張することによる掛け逃げが強い、というバグが発生しました。F1はバグと規制の追いかけっこで、新技術が投入されるとそれが出来ないように翌年にルールが改定されることは当たり前で、これはeスポーツとかなり似通っています。

 重要なのはバグがフィックスされてルールが更新されてしまうことで、スポーツが「なんでもあり」な状況を非常に嫌うことがわかります。これは、現実がなんでもありなことの裏返しでしょう。

 

勝敗を競うこととバグ

 さて、その点で、小説は「なんでもあり」な側に属します。スポーツで言えば、違法行為以外はどんなにズルいと思われる行動でも修正されない状態です。柔道がもしタックルを許せば柔道の本質のようなものは消えてしまったでしょう。ですから、直感的には、バグを修正する方が正しい行動のように思えます。我々は強いバグを発見してしまうと、スポーツのようにルールの変更を求めるか、それを使用しないモラルを求めてしまうものなのです。

 そこで勝利至上主義と娯楽主義の対立のようなものが生まれるというわけです。ライトノベルにおいては「現在流行っているテンプレ、及びタイトル」を使用するかどうかという問題は、上記のような直感が原因になっていると理解いただけると思います。事実としても、テンプレや流行のフレーズが入ったタイトルは、内容と無関係にともかくクリックを誘発するために使用されているのは確かです。導入や楽しみ方もテンプレによって同一になってしまうのも事実でしょう。そこで「流行るものは全部同じもの」「本来の小説ではない」「閲覧数だけ競って楽しいのか」などという非難が起きることになります。

 勝利至上主義はスポーツにおいてすら疑問視されることがあります。小説においては疑問視されるのが当たり前です。この疑問に対する回答として「閲覧数(売り上げ)のためになんでもするのは当たり前」であったり「作りたいものを作りたいなら売り上げは捨てるべき」「勝利条件は売り上げだけじゃないのだから目的を別に用意しろ」などが用意されています。ですが、それは本質的には解決策にはなっていない気がします。

 

小説はスコアアタックをどう扱ってきたか

 まず小説の売り上げ競争は、スポーツよりもルールが更新されないゲームのスコアアタックにより似ていることになります。読者が多く反応するという“バグ”を見つけ出した者が初期には有利になるが、情報が伝達されるにつけバグ利用が上手い者が勝ち始め、情報が行き渡った頃には、バグを組み合わせて意外な使い方をするか、新たなバグを発見する必要が出てくる。この競争は前述のように強いバグが支配的になる一方、それと組み合わせる小さいバグを発見した者には栄誉もスコアも与えられないことになります。

 この不均衡に小説は「ジャンルでくくる」という解決策で答えました。自然発生的なものではありますが、ミステリーやSFのようにそのジャンルを支える強いバグを固定することで、種々の問題を解決したと言えます。

 

ノンジャンル娯楽小説の漂流

 いわゆるなろうでないWEB小説は、現在、というか将来もノンジャンルでしょう。サイトによってジャンルをくくってくれるタグこそあるものの、そのサイトにおいて強いバグは流動していくことは間違いなく、いずれそのジャンルのバグが強くなることはあるかもしれませんが、それがいつになるかは誰にもわからないことでしょう。

 これまでのような考え方に従えば、いつか来るハイスコア更新のために、たとえ栄誉が与えられなくてもバグを保存し続け、バグのリストを構築し続ける、長期的にはそれが売れない小説の役割ということになります。

 

小説=バグのリストである

 以前にも小説におけるバグを発見するような読書スタイルについて言及したことがありますが、この解釈に則れば、実は小説、あるいは人口に膾炙し、人を楽しませる物語はバグのリストである、とまで拡張できるように考えられます。つまらない現実、あるいはわかりにくい現実を脳内の願望に従って、単純化、類型化、非現実化し、歪める行為であるからです。

 実生活のような「なんでもあり」の領域においては、法の支配といえどその上位には物語性が屹立していることが理解できます。宗教、神話などはかなり強いバグであり、「スコア=多数の人が物語に耽溺すること」であるとすれば、信仰により人間はものすごいスコアを叩き出してしまいます。

 極論すれば、人間が生きていく上でのルール、言葉を変えれば「正常なゲーム」は細菌や昆虫が示してくれるような生き方なのでしょう。それ以外はほぼバグであるとまで拡張しても良いような気がします。人間の精神は入力した言語の微細な変化だけで正常でない奇っ怪な出力を返すというようなバグでまみれているのです。

 

バグ屋

 「人間精神に内在するバグ=物語」という解釈は、作家という職業の可能性を示唆してくれます。純文学という構造が必要だったのは、新たなバグの発見、バグの研究をするためであり、制度化して保護されなければ将来のハイスコアに繋がらないと考えられたからであり、WEB小説はその制度が作られた理由に現在直面しているというわけです。

 では売れないが新たなバグを見出していたり、過去のバグを保全しているような作品が制度や権威により保護されるべきかというとそうではないでしょう。これまでは出版という形態が、いわば権威としてそのような作品を保護していました。これを貴族制のようなものと例えるならば、すでに民主化は行われつつあるのです。

 その民主化によって起こる問題について語るのは別の機会に譲るとして、バグ研究家としての作家は、諸々のメディアにバグを提供していくというスタイルによって生きながらえるという結論になるかと思われます。小説というメディアにこだわりがあっても、それはメディア運営者にバグを売っているという理解をすることになり、バグ研究と実験は売り物ではないというスタンスを取るしかないのではないでしょうか。

 

バグの破壊力

 またも小説家という職業は専業には成りえないという結論になってしまいましたが、それでもバグの破壊力を知る者としての価値は社会に必要不可欠なものであるとは思います。扇動の言葉を陳腐化することや、人間を間違った方向に突き動かす衝動を与えることはバグにしか出来ないことなのですから。