怪談師の方に先ごろの記事が届いたことで多くの怪談ファンにお読みいただけたようで緊張しています。危機感は怪談師の方々にもあるとのことでしたので、私はファンとしては休止という扱いとし、これからを楽しみに待つこととなりました。とはいえチョコチョコ見ているんだろ、と言われればその通りなのですが……。
さて、本ブログはオカルト全般のファンとして陰謀論をウォッチしており、真面目な記事の半分はそちらとなっております。残り半分は小説についてで、一応は作家を名乗っており、現役であると自負している以上は、そちらが本線です。これについてはファンでなくプレイヤーとして発言しており、小説の読み方や業界の現状について考察しています。
もちろん自作の紹介もしており、下品な言い方をすれば、本ブログ記事はすべて、自作が広く読まれることに繋がるといいなぁ、ついでに作家としての自分の世間での認知も良いものになるといいなぁ、という意図で書かれております。
というわけで、今回は昨今の小説業界の動向についての考察と、そこから導かれるこれから書くべき小説とはなにか? という話となっております。
かつて小説には様々な機能があった
小説には楽しむ以外に様々な機能があるものでして、主要なものとしては国民の意識を代表したり、日本語の姿を示したり、社会悪を告発したり、流行語を作ったりなどがあります。さらには文学者はかつて有名人としての役割も持っていました。すなわち恋愛スキャンダルを報道(自ら書いているのですが)されたり、コメンターとしてテレビに出演したり、CMに出たり……。ですが、これらは主に過去のことです。
他ジャンルに機能を奪われる
それらを過去にしたのは、当然ながら他の物語ジャンルの発展で、映画、アニメ、漫画、YouTubeチャンネル等がそれぞれの機能を代行、というかより先鋭化させて受け継いでいます。今や国民意識はジブリや新海誠のアニメに代表されますし、人々は漫画によって正義や社会悪の輪郭をぼんやりと共有しています。有名人もYouTuberですし、流行語もかなりの部分動画サイトから自然発生したものです。
それらの機能において、小説は他メディアに劣ります。日本語の姿という点ですら、流行語や口話はテレビや動画サイトがリードしていますから、後追いで定着させる役割しか持っていないことになります。各時代の基礎的日本語を保持するアーカイブとしての機能しか小説には残されていません。
では小説本来の楽しさは?
さらに言えば、楽しむという本来的機能ですら、文章でしか味わえない部分だけが小説に独自のものであり、物語表現としてはドラマや漫画、アニメに原作を提供するという形の方がうまく機能することはメディア化作品の成功が証明しています。
とはいえ、小説の面白さ自体が減じるということはもちろんあるはずがなく、個人に深く訴えかけるという点では追随を許しませんし、相当に複雑な物語を提供できるという面も見逃せません。構想が個人に委ねられていることにより、低コストでボリュームを出せるという利点があるからです。
だが権威だけは残ってしまった
ただし小説の面白さは、人々が共有するには少々難しいのは確かです。文芸批評はそれ故に発展してきたといえるでしょう。物語に感動することや登場人物への共感について、その理由を整理することで小説の楽しさを下支えしてきたという面があるのです。
最初にあげた小説の機能として、国民の意識を代表するというものがありました。そしてそれがアニメに移っているとも。「日本はどんな精神性を持っているんだ?」と海外から問われた時、『となりのトトロ』と『火垂るの墓』の二本立てを見せればかなりの部分が現在でも事足りるということを想起してもらえればいいでしょう。
国民の意識を代表するならば、それを作った作家と分析する評論家は「国民の意識を深く理解している」と認識されるわけで、それが彼らに政治的な発言を期待される理由となっています。国民の代表という権威が与えられてしまっているわけです。
しかしアニメ作家は一部を除いては政治的発言をしませんし、したとしても旧来の文芸としての文脈やコミュニティからは外部の者です。この旧来のコミュニティというやつが問題でして、小説も文芸評論もとうに国民の意識を代表していないのに、文芸誌周辺だけに権威が残されてしまったという構造になっているのです。
“格”を与える効果だけが小説に残された
芸人、松本人志の一連の騒動で私が印象的だったのが、かつてのファンが語っていた「真偽はともかく対応がダサすぎて冷めた。かつては彼のファンであるというだけで人間としての格が上がったような気がしていたのに」という趣旨の発言でした。
思えば、まだ小説には読んでいるだけで「賢い人間になった気がする」「政治について語って良い資格を得た気がする」「無学な人や無知な人と違う階級の人間になった気がする」という効果が残されていたのです。“格”を与える。それこそが小説に残された最後の機能。そして、それが権威の正体であり、小説を読まない人にすら大衆化した小説を積極的に見下す言説をさせる原因だったというわけです。
もう“格”しか与えるものがないともいえる
“格”のことは本来、作家には一切関係のないことです。格というのは幻想に過ぎないことは作家が一番知っている。一部には誤解している作家もおり「なろう小説とは違って~」「自分はエセファンタジーでなく本格ファンタジーを書いており~」などと主張する人々は、この“格”幻想を真正のものだと信じ込んでしまっているわけですが、それを例外とすれば、もう小説は作品の面白さ以外には、外部の業界に頼る他はなんの機能も持っていない。書籍化されているかどうかとか、ジャンルや発表形式にかかわらず、なにも集団としての読者に与えられるものはない。幻想の他にはなにもないことになるのです。
面白さに立ち返る
もう小説は、それ独自の強みに立ち返るしかないですし、ほとんどの作家はそう活動しています。個人に深く訴えかける、複雑な物語を、ボリュームたっぷりに提供する。
私としても、そういうものを書いていきたい。読みやすく、それでいて理解しようとするとわけがわからず、読んでいる間、ごく個人的なものだと感じられる性質を持つ……。
それが出来ているかどうかはわかりませんが、そんなところを目指した小説を今月末から月刊ペースで書いていきます。初回はすでに書かれており、ノベルアップ+とカクヨムで更新していこうと思います。
タイトルは『重力の雨滴に震える猫』です。第一回の『愛らしきものたち』が公開されており、続きは今月末からの公開になります。
小説の欠点としてあげた、読むための指針としての評論が必要という部分ですが、本ブログにて本作を書いた動機として今後公開させていただきます。
それではよろしくお願いします。