さらに小説から考える

 先日の話からさらに一歩踏み込んでみようと思います。「作家SNSのフォロワー数の多いことが出版条件となる是非」論争の根底にある考え方についてです。

 それは多くの人が「売上以外にも小説の価値はある」と考えているということです。Twitterで上がった意見を見てみれば、作家側からも読者側からもそれは見て取れます。もちろんそれは良いことです。売上(あるいは閲覧数)を基準でなく価値にしてしまえば、バズ競争のみが重視される世界となり、情報商材屋、サロン商法、政治極論デマ屋、などが展開している風景が小説界でも見られるようになってしまうでしょう。

 しかし“売上以外の価値”が何であるかは難しいところです。過去に小説が持っていた価値は、メディアの進歩により次々と剥奪されてきたからです。共通話題の提供、私小説的ゴシップ、個人的悩みの思索と解決、流行語の創設、特殊な感情への名付け、告発ジャーナリズム……それら列挙しても足りないほどの社会的役割=価値が小説よりも機能的なメディアに奪われていきました。結果、現在では“知的選民であるというポーズ”か“小説的と評される漠然とした何か”以外に小説の必要はない、と必然的に言い切れることになります。そのため、小説は他メディアでそれらの価値の実現がコスト的に高価な場合、代替として用いられている、というのが正直なところです。「売上以外にも小説の価値はある」という考えは実に儚く脆いものなのです。

 そこで小説の低コストが他メディアよりも積極的に生きる局面を考えてみましょう。素直に考えれば、それは“多様性”ということになるでしょう。他メディアでストレートに言い切れば誤解されるような深い考えも小説ならうまく表現できます。人間の複雑な思想や行動を様々な視点から提示することができる小説ならではです。それを低コストで届けることが可能なので、表現する作家も増えます。シーンそのものが多様性を持ちます。“多様性”こそ“小説的と評される漠然とした何か”のひとつでしょう。

 ところが、この価値も現在、危機にあります。先の“編集者が読むべき作品の多さ”を近年になって発生した高コストの事象として認識すべきだからです。良質な作品が増えたことが小説の良さを殺すという逆転現象が起きているのです。皮肉にも多様性を受け止めることそのものが高コストなのです。

 同時に多様性を称揚する昨今の社会運動も高コスト化をはらんでいると必然的にわかってきます。LGBTすらカテゴライズされた多数の人々です。さらに多様な細分化が可能で、しかもそれが必要なことをネット上の小説が教えてくれます。

 今小説に求められているのは「この小説の価値はこれだと広報される」ことか「必要な人にその要素を満たす小説を届ける」ことでしょう。その実現がどのようなシステムを必要とするのかはまだわかりませんが、実現のための努力が小説に寄与し、さらには社会の問題解決のヒントになることすらあるのではないかと考えます。