小説を読むこと

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 多少突飛な話であるものの、思いついたので軽く書いておくかと思いたちました。

 というのも上記記事を読んで、「これが本来の小説の読み方ではないか?」と思ったからなんですよ、これが。

 一発で「そうか!」とは理解されないでしょうから、順を追って書く……ことも難しいのだけれども、なんとか絞り出してみると、一般に小説を読むのは物語を楽しみ、全体の雰囲気を味わうものです。もちろん格ゲー『北斗の拳』の例であれば、普通に対戦することがこれにあたることになります。ではバグ出しとは小説のあらを探すことかというと、そうではなく、記事中にある「このバグを使用した『北斗の拳』は自分しか見ていない(大意)」という感覚です。

 世の中には無茶苦茶長い小説があります。有名なところだと『失われた時を求めて』。これは購入した人の中で通読した人の率(複数巻ある場合最後まで購入していない率も高い)がかなり少ないであろう小説なのですが、通読した人も「読んだ」とは言えない現象が起きる本でもあります。研究本も多数出ているのですが、それによると(自分も通読組ではないので)一読して意味のわからないシーンが散見され、日本の研究者の間でも謎とされていたりする部分があるそうなのです。つまりそこに疑問を持たなかったということは、「読めなかった」ってことになるわけですね。なお、モデルになった現地に行くと疑問が疑問でなかったこともわかるそうです。つまり現地で特定の時間や場所だとその謎現象がそのとおりに見えるんだそうな。

 ええと、なんの話でしたっけ? そう、つまり偶発的であれ(『失われた時を求めて』などはこれ)、意図的であれ(トマス・ピンチョン作品などはこれ)、かつて書かれた大作小説は、読者が困惑しつつ自分だけの世界を見ることができるように書かれている……というのが私の主張、というか気づきだったのです。

 思えば傑作と言われる小説は短編であっても“バグって”いる。カフカ然り、芥川然り。そして、それは書き手の人格を超えて記述したものがただプログラムのように作用するという性質により起こる(力量があっても思い通りにバグるまで修正を繰り返すのもプログラム同様)。ただ、北斗のバグ出しにたどり着けるものが少数であるように、書き手が意図しなかった景色までたどり着ける読者も少ない。

 そういうことをこの記事から読み取りましたと記しておきます。