ここまでのまとめ

 ここまでで、ある程度は小説というものについて考えられたかと思います。思弁的であろうとストーリーがなかろうと、主に具体性を持った物語であれば、多くの人が小説と呼んでいるものになるだろうということです。
 そして、その具体性こそが我々を感動させるわけで、たとえ思弁的な小説であっても、それを書いている具体的な主体を感じられれば、それは感動につながります。ベケットの晩期作品『いざ最悪のほうへ』などは、意識だけの存在が無から他者の意識の立ち上げから消失までが具体的に書かれていれると解釈すれば、それはストーリーがあるともいえるし、なんなら多くの作品よりもエキサイティングであるとさえ言えるでしょう。
 二次創作的なものがある程度オリジナルより書くことが楽であるのは、この具体性が最初から用意されているからにほかなりません。舞台やキャラクターがわかっていることは、具体性をあらかじめ共有していることになります。
 ここで最初に話が戻ると、その具体性があらかじめ共有されていることこそが「前提知識」にほかなりません。そのバランスこそ小説に難しいところであるのは、先に説明した通りです。
 さて、次回からは、私のスタイルを軽く説明していくことになるかと思います。少し更新まで間が空くかもしれませんが。