好きなことを選んでいるのに孤立してしまうこと

 久しぶりの更新になってしまったのは、小説を書いていたからで、まぁ本業といえば本業なのですが、合間にまた文章を書いているのは、不思議な感覚があります。

 それはそれとして、ネット配信の興行収入が映画館を抜いたそうで、隔世の感があります。劇場で見るほどでもない映画と連続ドラマの見方はほぼ決まったということなのでしょう。

 もちろん私もネット配信映画は見ているわけですが、見ていて感じるのは、実は画一性よりも多様性です。同じ配信チャンネルに登録している人は同じものを見る傾向があるに違いないと思っていたのですが、入ってみると「日本では誰が見るんだよ」というようなものが翻訳されて流されているのですね。ニッチなドキュメンタリーや、海外産(例えばベルギー!)の連続ドラマ、インドのアニメなどが一部未翻訳の部分までありながら揃っています。自分が好きなものだけ見ていれば、快適な配信環境になる一方、知人がたまたま自分のリストを見たりすると「なにこれ? わけわからん動画しか配信されてないの?」という反応になること間違いなしです。なお誰にも理解されないリストを作りたければ、アメリカの黒人スタンダップ・コメディを見まくれば(なぜか次々新作が来る)、ほぼ日本人に通うじないリストが出来上がるのですが、それはまぁどうでもいい話。ここでしたいのは、多様性とは孤独に直結するという話です。

 Twitter等のSNSでのフォローでも見るものを限定できることから「偶然の出会いによる成長(嫌な言葉だ!)がない」という意見は少し前からありましたが、配信ソフトの問題は、それとは少し違い「偶然の出会い」も配信ソフト側が演出してくれるという点にあります。GAFAGoogle,Apple,Facebook,Amazon)なんて言い方がされるわけですが、このGAFAはよく非難されている「規格が統一されていることによる世界征服」などは個人にとってはさしたる問題ではなく、むしろ否応なく自分が属しているクラスタを限定させられてしまうことです。ひとつしかクラスタに所属していない人もいないでしょうが、すべてが同じ所属という人はあまりいないはずで、必然、孤独が待っています。もちろんそれぞれのクラスタ内で話が通じるのだから、孤独ではないはずなのですが、後述の理由で起こる「欠落」こそが孤独を生むことになるでしょう。

 その「欠落」とは、「生活していく上で必要な情報が抜け落ちてしまう」ことです。
 まずは「ネット配信」で起こる現象を見てみましょう。ネット配信なのだから、「映画」を見るものと相場が決まっていますが、我々は「映画とはなにか」を映画を見ることから学んでいます。もし見ている映画が根本から異なる二者がいた場合「共通言語としての映画」を持っていないことになるのです。それどころか映画を知らない人も出てくるでしょう。ドキュメンタリー映画については、現在でもすでに見方を知らない人もいることと思います。

 これはどうでもいい話ではありません。例えば「日本の野生環境における外来種の知識」は、おそらくクラスタに属するニッチな知識のはずです。ですが、これを知らないことは犯罪に直結する知識の欠落なのです。他にも、「ワクチン接種の正しい知識」や「アルコール中毒に対する知識」、「ブラック企業からの逃げ方」など生活に必要な知識はどんどん増えているのに、我々はそれから孤立させられているのです。

 私の興味分野でも、小説サイトが次々立ち上がっています。これも構造上、ネット配信が生む孤独を加速するものです。まったく、困った時代に生きているものですが、過去より現在が良いには決まっていますので、「共通言語としての小説」がなくなったときの問題と、そこにどう対処していくべきかはこれから考えていこうかと思っています。