小説サイト乱立時代とこれから

 小説投稿のサイトが増え、世間(というか主に運営側)で叫ばれることは「死にかけた出版業界の再生を」や「異世界転生ばかりではない小説の多様性を」等なのですが、それに全面的に賛成している人は少数であろうことは市場が証明しています。たとえ「ユーザー(読者&作家)を大事にする」姿勢を示そうとも、何も起きないままでしょう。

 小説の投稿しやすさも読みやすさも、それによって生じる恩恵も、最終的に市場の拡大が目的であるならば、いわゆるコモディティ化を後押しする要素にしかなりません。結果として個性の無いサイトが並立し、多様性すら実現は不可能であることは誰でも予想できることでしょう。小説投稿サイトは、そのサイト内に読者を拘束することを是とします。それは悪ではないのですが、映画配信サイトの抱える問題の縮小版(つまりより悪い!)として「共通言語としての小説」が失われることが起こります。

 では「共通言語としての小説」が失われることの何が悪いのか? それは「レアではあるが確かに存在する人間の思考パターンが多数の人に知られなくなる」ことが起こるからです。生活している上で役に立たない思考や、隠しておくべき事柄などは、物語の形でしか認識されません。小説は低コストであるがゆえに近代ではパーソナルな物語を扱うことが可能なジャンルでしたが(国民小説のような機能は映画やテレビへ移行したこともあり)、それらが人々の目につかないところに行ってしまうのは損失でしょう。

 現状では、多くの出版人が国民小説を取り戻そうとしているようにしか見えず、投稿サイトもそのように使おうとしているようです。売れる小説をメディアミックスし、それによって「良心的な(出版人はそう思っているであろうという意味で)」作品を出版する。そのモデルが衰退しているのにそれを行おうとしているのは狂気ですし、なにより、そのスタイルが「売れる作品」に対して侮蔑的であることが、ライトノベルと文学の軋轢として表面化した歴史があります。

 では、それにどう抵抗したらいいのか? 「作家がパーソナルな内面を作品として提示し、そのサイト内でライフスタイルのモデルをまるごと提供する」ことにより、作家と読者のコミュニティを作ることが解決策であると私は考えます。作家個人が、読者に対し、いかに内面を表現したら良いかを示すことこそ、小説が生き残っていく鍵になるのだと思います。現状の「お文学」についての愚痴は、まぁ書かないでおくのがよいでしょう。