さて、前回の話をまとめるとこうなります。

 

  • 格ゲーは人間の反応速度に限界があるから成立している
  • 反応に限界があるからプレイヤーは行動をモジュール化している
  • 最速で行動できるならゲーム性はじゃんけんになってしまう

 
 以上のことから「もしかしたら自由度のないゲームなのではないか?」そして「それは嫌だなぁ」と感じた、というところになります。
 
 では格ゲーの本質はどこにあるのか。それを考えるキーは、やっぱり自分がヘタクソなところからはじめたことにありました。
 
 「なんかキャラが思う通りに動いてくれねぇ!」とキレていた私は、自分以外のところに原因を求めました。ヘタクソにありがちな言い訳……だったのですが、いちゃもんをつけるために発見したのは、当たり前過ぎて誰もが気づいているけど言及は特にしていない部分でした。
 
 地上と空中でキャラが衝突したとき、地上キャラの厚みがないみたいになるやん!
 
 お気づきのように「めくり表落ち」とか「裏落ち」とかいう小技を成立させている二点「キャラ同士の正中線が交差すると一瞬で(数フレームかかるゲームもあります)キャラクターの向きが変わる」ことと「他キャラクターの存在判定の上にキャラクターは立てない(例外的な技やオブジェクトもあります)」にケチをつけたわけです。
 
 「ああ、直感と違うんだ、これ……」
 
 そう気づいてみると、キャラクターの攻撃判定、食らい判定、キャラクターのアニメーション、それらすべての中にいくつも直感と反する部分が発見できました。
 
 そうです、上手な人は「ゲームの動きの方に自分を合わせている!」のです。当たり前といえば当たり前ですが、ここに、各自の好みのキャラクターが存在することや、昨今Eスポーツという言葉が盛んですが、スポーツ性があったわけです。
 
 キャラクターの速度やアニメーション、常識を超えた動き、そしてそれらが与えてくれる快感、自由度を感じさせてくれる爽快感が、他のスポーツでいえばボールやラケットだったことになります!
 
 「画面内の感覚が異常なものであっても、それに対応していく」ことがゲーム! 考えてみれば、それがアクションゲームの歴史であるというところに戻っていました。
 
 では格ゲーは対戦アクションゲームの中で何が特別なのか? そこを考えていくと、驚きの人間力が見えてきます。
 
 格ゲーでは行動をモジュール化します。ガードタイミングに意識を割かないために、ある期間、例えば敵キャラクターが接近して技を振っている間はガードし続ける、というようなことをしています。そしてコンボを含む連携攻撃をしている際はボタンを押す順番を決めて、それが自動化できるように繰り返し練習しています。
 
 では、モジュール化した行動は、どこまでが人間の限界なのでしょう? これはねぎ先生に聞いたことですが、「ヘタクソでも誤差2フレまで許容されるコンボならほぼ百パーの成功率になります」とのこと!
 
 そういえばストリートファイター4では誤差1フレ許容コンボをプロはほぼ決めていましたし、ウメハラ氏は0フレコンボ、通称ウメ乱舞を大会で決めていました。
 
 人間はリズムを刻む行動であれば精密に決めることが可能なのです!
 
 だからこそ格ゲーの各キャラクターの技においてフレーム単位の知識があれば、AIがゲームを行う際のじゃんけんが人間でも状況によって実現できるわけです。
 
 どうやらじゃんけんはスタート地点に過ぎなかったようです!
 
 すると問題は格ゲーはどのようにゲーム性を担保しているのか? に絞られます。これはいわゆるゲージ管理や、固有システム使用、となるでしょう。ゲームごとに違い、プレイヤーにとっては研究しがいのあるところです。
 
 ゲーム性そのものがゲームによって規定されているので考察できないところはもどかしいですが、以上のことから、私が考える格ゲーの本質とは……。
 

  • ゲーム内アニメーションの動きに身体性を合致させること
  • 相手に二択三択をかけていく連携を発見すること
  • 各ゲームに固有のシステムを運用すること

 
 の三点になります。
 
 アニメーションに身体性を合致させる作業では精密動作と視覚聴覚を中心とした身体感覚が求められ、連携発見ではパズル構築力と狂いのないリズム感、システム運用ではボードゲームに似た駆け引きが試される。
 
 実にスポーツ! なんという可能性!
 
 以上が軽くながら個人的に詰めて格ゲーを考えてみた結果となります。これらを踏まえてさらに言うなら……。
 
 私は動画勢がんばります!