今年は本当に不活性というか、世間も自分も何も出来ずに終わった感があり、なんとも隔靴掻痒の年となりました。こういう年があったことを将来的にも忘れずにはいたいものです。
陰謀論には注意
なにより個人的に忘れてはいけないと思ったのは、「この年を境に“オカルト遊び”をある程度限定的なものに留めなければならない」、という教訓でしょう。テレビでディープ・ステートの名が語られるまではいいのですが、本気で信じている人々が増加しているのを見てしまうと、冗談でも記述するのを控えなければいけない、と思います。
そもそも“オカルト遊び”は何をするにも「信じているフリ」が重要なわけで、表立って否定せず、センスの良い人にだけ真意がわかるようにするプラクティカル・ジョークです。その意味でも、過激な米国共和党支持者たちの言説をそのままテレビで扱っていた某番組の姿勢は非常に危険なのではないでしょうか。信じるか信じないかは当人次第と言いながら、冗談の余地がなくタレントをメンターのごとくに崇めかねない演出までなされていました。
それでも全体として捨てねばならぬ思想が判明したことは喜ぶべきことでしょう。現代の陰謀論は実害を持って我々の前に出現したとも言えます。選挙における陰謀論は内戦に直結しますし、インフラへの信用の失墜は生活基盤そのものを脅かします。それらのすぐに危険とわかる陰謀論も、“イルミナティカード遊び”等の実害のないものと地続きであることが示されたわけです。日本においても、オカルトで遊んでいたつもりのあなたの隣人が富士山消失を訴え、5G通信を恐れて自殺するかもしれないというところまで来ていると考えるべきでしょう。
いわゆるオタク趣味の人々は、そういう陰謀論から遠い人種と思われていましたが、米国では積極的にそういう趣味の人々がハマっていますし、国内でも某掲示板の政治板がそのような人々の巣窟になってしまいました。遠い国の話ではないと考える必要があり、これらの動きには注意していく必要があるはずです。
オタク趣味の転換点
オタク趣味といえば、露骨にそちらの香りを持つ『鬼滅の刃』が記録的興行収入を叩き出し、社会現象となりました。これをもってSF的に言えば「オタクの浸透と拡散」が完了したと言えるでしょう。これからは違和感もさほどなくオタク趣味のイラストが街の風景に溶け込むわけです。美少女イラストの看板を見てしまったときの気恥ずかしさはもはや過去のものです。
小説においてもライトノベルと一般小説のパッケージングに違いは見つけにくくなってきています。内容的にもファンタジー色の強さは作品固有のパラメーターに過ぎず、大きな括りでは違いを見分けるための指標にはならないでしょう。
これを浸透と拡散と称したのは、SFの退潮と相似形となるであろうからです。ゲームもアニメもなんであれとりあえず見る、というオタクスタイルは消え去り、個々人は絵柄やストーリーによって細分化されたコミュニティを探して安住し、そこから出てこなくなるというのが主流となるでしょう。それが一般的なカルチャーの消費スタイルとなれば、コアなオタクは過去のヒット作に拘泥し続けるしかなくなり、それらへのオマージュを捧げた作品のみが「ハードオタク」などと呼称されることになっていく未来も予想できます。
鬼滅のヒットで証明されたのは、オタクは作品こそ発信こそできるものの、ヒットを生み出すための宣教師にはなれない、という事実でした。コアな人々がどう作品を紹介しようとも、ヒットを作り出すのは趣味のネットワークでなく、生活のネットワークでつながる人々だったという分析は可能でしょう。
これからの展望
ことカルチャー、コンテンツに関しては、「マーケティングではキャズムを越えられない」というべきでしょう。我々作家の生き残りは困難になりますが、細分化したスタイルを貫徹することこそが、大ヒットにも、作品継続のためのファン獲得にも繋がるのではないでしょうか。より良い未来は中々見えませんが、ファンの増加と構造改革のために努力していくしかないようです。
来年度よろしく
そんなわけで来年もよろしくお願いいたします。参加させていただいているアンソロジー・シリーズと何かが出るはずです。現在心からの趣味で書いている作品はこちら。青年誌的なバイオレンスのあるサスペンス作品となっております。
来年が良い年でありますように、と切実に祈ります。