小説の難しさについて

前回からの続きです。
s-mizuki.hatenablog.com

  「前提知識や前提経験を必要とする小説」に、あまり説明はいらないかもしれません。特に前提経験はすぐにご理解いただけるものと思います。学校生活を送らなかった人に学園物は理解しづらいでしょうし、会社勤めがなければサラリーマン物は響かないことでしょう。
 一方、前提知識となると、例示するのは少しだけ難しくなります。世間で難しいと言われているものと共通項も出てきます。例えば哲学書を読んでいないと理解できない小説などです。国際情勢もそうでしょう。とはいえ、そのようなものばかりでなく、ネットでジャーゴンとして使われているものはすべて前提知識に類するものです。例えば、百合、異世界転生(スキル、ウィンドウ、なども内包しています)などは現在の典型的なものでしょう。
 このように特定の文化に属したものはすべて難しいといえます。小さくとれば個人の日記は自分にしかわからぬように書くことが可能でしょう。一方、大きく取れば、日本語で書かれた日本人の小説には海外の人には難しいわけです。
 これらは対象読者の違いと捉えることもできます。先程例に出したように、もし個人的な言語で書かれた小説があったなら、それは読者が一人しか存在しない小説ということです。
 では、この読者が一人しかいない小説を読むことに意味はないのでしょうか? いや、この小説を読めるようになるということは、一人の人間のかなりの部分を理解したということになるはずです。事前に読み方のレクチャーを受けた上で、一語一語、逐一細かく読んでいく必要がありますが!
 お気づきの方も多いでしょうが、現在、名作とされている文学は、このように極めて個人的な(ただし言語が特殊というよりは語の組み合わせや考え方が特殊な)小説がほとんどだといえるでしょう。実は、文学につきまとう読みにくさや難しさは、かなり個人的な文化の表現であるから、なのです。
 このような小説の読み方は、多くの人が考えているような「おもしろいストーリーを表現するもの」とは少し違うことがおわかりいただけるかと思います。そして、皆が考える「難しい小説」とは違うということも。
 難しい小説は「読者を極大か極小に絞ったもの」と言い換えることも可能かもしれません。個人的でありながら、誰にでも読め、翻訳できる言語で書かれた物語。そういう境地に挑んだ作品は、誰かに文化そのものを伝えて感化するという点で優れており、この世に存在する価値があります。
 次回は、そのような小説を読み解いていく方法について書いていくことにします。