いや、そもそも「ギョーカイ」ってここでは何を指しているんだ? って話になりますが、私の関心があるところですから「出版業界」「アナログ&デジタルゲーム業界」ということになります。
私は割と昔の人間なので、若い頃はそれらの「ギョーカイ」があると思って活動していたわけです。出版社で本を出し、パーティに参加し、そしてみんなにチヤホヤされてですね! みずきちゃんカワイイ〜! カッコイイ〜! って! 言われちゃうんです!! いや〜困っちゃいますね〜。などと考えていたわけです。いやまぁ、昔は誰もが(ここは誇張)そう思ってたんですよ。
とはいえ当時も「作家カッコイイ!」へのカウンターとして「作家やゲームデザイナーも数ある仕事のひとつに過ぎない」なるクールな意見はあったわけですが、その真意は「業界に金をもたらすことが重要」であったり「シーン全体を考えてみんなが得するようにしなくちゃいかん」だったりしたんです。いずれにせよ「ギョーカイ」が存在することが前提だったんですな。
カタカナの「ギョーカイ」なのは、当時でもそれが幻だったからそう書いているわけですが、私が強烈にギョーカイにあこがれていた頃は、幻想としてのそれは存在したと言い切ってしまっても良いでしょう。まぁ主観ですが、SFやシミュレーションゲーム雑誌、ライトノベル誌、週刊でなく月刊の漫画雑誌を読んでいた&作っていた人々の間には「これからこのギョーカイは広がっていくぞ」という感覚が共有されていたと言えるでしょう。
それが現実になって現在がある……のですが、ここでカタカナのギョーカイが変化してしまった、と個人的に感じています。ギョーカイは拡散し、一般的になってきました。それにつれ、漠然とした連帯感は消えていきます。それぞれのジャンルは完全に共存してはいますが、コミケに参加しているから仲間、とは誰も思っていないでしょう。
いまさらオタクの浸透と拡散の話か? というと、それが主題ではありません。漢字の「業界」つまり、現在、オタク系コンテンツを出版している会社は確実に存在している。だが、ギョーカイが無くなった今、業界が外部からは意識されなくなっているんじゃないか、というのが今回この記事を記述している意図となります。
その業種を運営している会社は確かに存在するが、そこに連帯感を抱くような要素がない、と言い換えてもいいでしょう。会社は法人という組織であるので、中にいる社員が入れ替わろうと存在します。そして、その売り物が変化しても法人には変化はないわけです。どんな出版社もかつてのギョーカイっぽいもの(まぁオタクコンテンツということです)を営業の一部にしてよいわけですし、そこに参加する人も専門家でなくとも問題ないわけです。
ギョーカイの拡散のため、作家間での技術の共有や全体で流行しているテーマは失われました。なろう系と呼ばれるものはライトノベルに含まれるものと考えられていますが、その流行に相互作用はありません。ライト文芸はまさに内部の流行以外はライトノベルとの違いはほぼないのにもかかわらず、ライトノベルではないと思われています。SF、ミステリなどはさらに遠いものと思われているでしょう。このように、読者には共通の話題となる作品がなく、作家には連帯すべき部分が見えにくいことになりました。例えばSFにオマージュを捧げて執筆された作品でも、SFを好む読者に届く確率は、既存流通では限りなく低いといえるでしょう。
その現状は「ネットで発表して販売もできるのだから編集者はいらない」という意見として顕在しています。確かにそれは一面から見た事実でしょう。どこかの会社が出してくれないなら、ネットで人気を集めることで他の会社への宣伝活動とすればいいのだし、なんなら個人で出版社も兼任してしまえばいい。その視点からすれば「業界すらない」わけです。
しかし、業界が無くなったわけではありません。ネット発であろうと、エージェントや出版社を経て書籍化するのです(そのメンバーが流動的であることはすでに書きました)。ギョーカイも狭くなっただけで、無くなったわけではないのかもしれません。もし作品単体のファン同士の連帯をそう呼んで良いなら、作者も読者もギョーカイを大きくする(この場合は作品のファンを増やす)ことを目指しているわけです。作家が自分で電子書籍を出す場合でも、多くの人に読んでもらいたいと思っての行為です。
つまり作家は「自分業界(ギョーカイ)」を自分を中心に作り出さねばならない。そういう時代になっていると考えるべきでしょう。
これまでは「作家は業界(ギョーカイ)に認めてもらってデビュー(執筆)する」というスタイルでした(今もそう信じている人はいるでしょう)。これからは「作家が業界(ギョーカイ)にお願いして執筆させてもらう」ということです。
業界には編集者だけでなく読者をも含むと意味を拡大しないといけないでしょう。ネットで人気になるには読者が不可欠です。人気になって出版に至るとしても、それは見かけと違って「出版しても良いと認められた」のでなく「出版したいのでお願いした」との意味に変化しているのです。
そうなると、いわゆる「炎上」により作家が切られる意味も見えてきます。作家が中核になって作品というプロジェクトを動かし、それが狭いギョーカイを作り出しているのですから、作家が大多数から嫌われるような言動をした場合、プロジェクト自体が消えてしまうのです。出版社が作品を守らないのではなく、作者が作品を守るべき、ということなのでしょう(もちろん炎上内容が正当か不当かは別問題です)。
ギョーカイの存在が見えにくい、という話から現状が見えてきました。となると、我々はどうしたらいいのか? 私が個人的に思うのは、「ついに『可愛げ資本』の時代がやってきたか!」ということ。
『可愛げ資本』という謎の造語とは? あたりは次回に語ってみようかと思います。