毎度のように年末がやってきてその年の総括を迫られるというわけで、今年はなんだったかというと、あまり動きのない年だったのは確かで、平坦というか、あまりに何事もなく過ぎてしまったというのが正直なところ。
ということは、何かに欠けていたのは疑いなく、それが何なのか考えているうちに後半が過ぎ去ってしまった感があります。
で、それが結局、何だったのかといえば、「“推し”がなかった」ことに尽きるとようやく結論できました。二次元を渇望する心というか、物語に没入する活力が足らんのだということです。作品を見ても「これだ!」という感覚はあまり得られなかった。それは作品でなく自分にも問題があるだろうということです。
何かにハマって「これは素晴らしい」と熱狂できること。その対象を探すことこそを来年の目標にしなければなりません。何かを渇望しよう。
それでは皆様、よいお年を。
『ブルームサービス』をプレイ!
この作品は、ホウキに乗って薬品を届ける魔女を操りポイントを競うゲーム。『魔女の宅急便』じゃん! と思ったあなたは正しい……のだけれど、イラストは安定の老婆。もうちょっとなんとかならなかったのか? という日本人の思いを踏みにじるドイツゲー。まぁご家庭でのプレイが前提なら可愛くなくても仕方ない。
とはいえ、ゲーム内容は素晴らしいの一言。基本的にプレイヤーが全員同時に行動すると考えればよく、上記カードを複数枚選択、最初に公開権のあるプレイヤーから行動開示、それと同時に「勇敢」か「臆病」かを宣言します。臆病だと無条件に行動成功、勇敢だと同じカードを選択していたプレイヤーがいれば、行動権を奪われてしまいます。要するにバッテイングを予想しているなら「臆病」、そうでないなら行動を短縮できる「勇敢」を選んでいくという博打ゲー。博打大好きな人は素直に盛り上がれます。
ポイントになるのは、バッティングしたら“行動しなければいけない”というところ。「移動してから、薬を届けて、移動して……」という予定を立てているところに、移動前に薬を届けるカードをバッティングされてしまうと行動が無駄になります! 意外にも読み合いが熱いゲームです。
バッティングしそうにないカードを選ぶことと、バッティングしそうなカードはなるべく最初の行動で、という方針でプレイするのがよさげ。移動可能な魔女コマは各自ふたつ所有しているため、詰まないように移動していくのもポイントです。
さらに終盤までに右上に移動しておくのが勝利の鍵。逆に目指しているプレイヤーが到達しないようにバッティングさせるのも秘訣になるでしょう。
このように読み合いと博打が熱い『ブルームサービス』。実におすすめのゲームです。
ゲーム『イシュタル:バビロンの庭園』
ホビージャパン様でゲームをプレイしてきた!
今回紹介するのは、新作『イシュタル:バビロンの庭園』。下記リンクからみんなもテストプレイできるので是非。
ゲームは陣取りにワーカープレイスメントの要素が入り、互いに緩やかに邪魔しつつポイントを競うもの。「緩やかに」というのがミソで、相手のボードを配置しづらくする以外には相手のことを妨害できないのだ。必然、ポイント効率を求めることが勝ち筋になる一方、妨害で損した数点が致命傷にもなる。
三種類ある庭園ボードを繋げて配置していき、そこに花畑や樹木を植えることによって得点をあげていく。庭師がいないとポイントにならないところがなんともニクい。
ボードはランダム性が高く、得点の方法も豊富。おそらく一回の手番で何得点できるかを考えつつプレイするのが勝利への近道なのだけれど、ランダム性のおかげで、似たような局面になることは皆無といっていいので、メンバーを固定して何度もプレイすることで上達と攻略が楽しめるゲームです。
発売はもうすぐ。みんなもゲットしよう。
活動再開
新作はじめました。軽~い作品です。更新もきまぐれ。
ここまでのまとめ
ここまでで、ある程度は小説というものについて考えられたかと思います。思弁的であろうとストーリーがなかろうと、主に具体性を持った物語であれば、多くの人が小説と呼んでいるものになるだろうということです。
そして、その具体性こそが我々を感動させるわけで、たとえ思弁的な小説であっても、それを書いている具体的な主体を感じられれば、それは感動につながります。ベケットの晩期作品『いざ最悪のほうへ』などは、意識だけの存在が無から他者の意識の立ち上げから消失までが具体的に書かれていれると解釈すれば、それはストーリーがあるともいえるし、なんなら多くの作品よりもエキサイティングであるとさえ言えるでしょう。
二次創作的なものがある程度オリジナルより書くことが楽であるのは、この具体性が最初から用意されているからにほかなりません。舞台やキャラクターがわかっていることは、具体性をあらかじめ共有していることになります。
ここで最初に話が戻ると、その具体性があらかじめ共有されていることこそが「前提知識」にほかなりません。そのバランスこそ小説に難しいところであるのは、先に説明した通りです。
さて、次回からは、私のスタイルを軽く説明していくことになるかと思います。少し更新まで間が空くかもしれませんが。
具体性がないと……。
「明確なストーリーのない小説」、あるいは「ストーリーの弱い小説」は馴染みは薄いでしょうが、実際、複数あります。カフカなどはストーリーがまだ存在する方で、ベケットの後期などは不条理というより思考をそのまま改行なく書いただけというものさえあります。
しかし、それらが面白くないかというとそんなことはなく、ただ読んでいく瞬間だけに意味があるという点では非常に面白いものです。それに、現代でもそのような小説が残っているのは、それらが面白いからにほかなりません。
皆が事前に抱いているイメージとは違って、そのような思弁的とか、不条理とか呼ばれる小説は、実に具体的なことが書かれている場合が多いのです。カフカも映像化可能なほどに具体的で、実際に映像化されています(きちんと見ると細部が小説通りでないことも含めて楽しめます)。
逆に、ただ独善的な心情が書かれているような作品は、実は不条理でもなんでもないということがわかります。不条理で難しい小説について多くの人が抱いているイメージは、実はこの「下手な小説」なのです。
多くの人が小説を書く際にもこれを忘れています。自分がいかに駄目かを書いて同情を得ようとし、同情を得ようとする自分は卑しい、みたいなループに入る作品です。
これらに共通しているのは、具体性がないこと。自分がいかに駄目かを書くなら、失敗例を具体的に描けば、読者も楽しんでくれるし、その言語が特殊であれば、文学的な価値も当然あがります。
このように、小説は明確なストーリーがあろうがなかろうが、「具体的な事例がきちんと書かれている」ことで読者は読み進められるようになるのです。
一方、真に具体性のない小説は、あるにはありますが、それは具体性を経て到達できる話なので、まずは具体性を持って書かれたものを正確に読み取ることこそが、小説によってあなたの「好き」を発見する方法になる、ということになるかと思います。