間が空くのもなんなので、さくっとエッセイ的に。

 
 個人的に昨今の困りごとは「わかってしまう」ことなのだと思っていて、それはどういうことかというと、例えば『どうぶつしょうぎ』というゲームがあるわけですが、これをプレイするより前に「完全解があるよ!」という情報に行き当たってしまう、というようなことです(なお後手必勝)。
 これは煎じ詰めれば、二マス上下「歩」のみの将棋が先手必勝で、三マス上下「歩」のみが後手必勝とでもいうようなもので、まぁ、うまく言えませんが、そういう「わかってしまう」が世の中には、ある。オセロは終盤近くの二手くらいのみ判明しておらず、チェスも遠からず完全解が……とか、「判明したとて、将棋盤を拡大すればよい」と将棋の羽生さんが言ったとか、まぁ余談はあるわけですが、ともかく、そのような。
 
 これがネットの普及のせいであるとか、そういう分析は別として、問題と思っているのは「最前線以外は価値がないと感じられてしまう」ことです。まぁ自分の内面だけの問題ならいいんですが、『どうぶつしょうぎ』なら、「真剣にどうぶつしょうぎプレイしています!」というブログって成立します? ってな感じです(実際『どうぶつしょうぎ』はコマが増えていきます)。
 
 この感じをどうすればいいのか? そしてそれがゲーム以外の分野にも適応できることなのか? そして、自分の興味の範囲である小説にも「最前線以外に価値がない感覚」が響いてはいないか? あたりが現在の悩みどころです。そこから主語を大きくして政治問題やなろう小説のゲーム性うんぬんについて話を持っていくこともできますが、陳腐なのでやめておきましょう(こういう態度も「わかってしまう」感じなのですが)。