ふたたび日本のQアノンについて(後編)

 ここでは日本のQアノンである『QArmyJapanFlynn』メンバーのブログを紹介します。晒す目的ではないため、直接のリンクでなく引用で提示させていただきます。画像もそのまま掲示しますが、そもそもが著作権違反の画像であるため、該当ブログの方の許可は不要と考えています。文章につきましては批評が主目的の引用の範囲と認識し、一部を転載します。ご本人からの抗議等ありましたら引用を削除し、直接のリンクへと変更させていただく対応をいたします。

 批評の目的は、引用ブログがQアノンへの勧誘文として秀逸であるためQアノン思想の根底部分を象徴するものになっていると感じ、それについて批判するものです。

 それではまず引用です。

 

見出し画像

💊目を醒ます👀✨

「目を醒ましていなさい」といったのはイエス・キリスト🙏✨でも弟子達は我慢できずに眠ってしまうのです〜😴💤

ならば尚更、迷える子羊達の眠りはどれほど深いでしょうか?私達は眠らされています。つまり洗脳されています。騙されています。

誰に?

社会に

メディアに

国に

世界に

この世界のほとんどすべてに…

💢「失礼ナ❗そんなことはナイ❗私はちゃんと自分の意志で生きてるゾッ❗」ヽ(`Д´)ノプンプン

という方もいると思います。

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👉《覚醒(かくせい)とは、目がさめること、また【意識や感覚がはっきりと働きはじめる】ことを意味する言葉。比喩的に【それまでの過ちに気付いたり、迷いから覚めたりすること】についてもいう。(実用日本語表現辞典)》

どうでしょうか?

あなたは目が醒めていますか?

 

 

朝起きて洗脳装置TVをつけてグリホサート入りのシリアルを食べる。電車の中で位置情報発信スマホフェイクニュースをチェック。ディープステート企業でピラミッドの人間関係に神経をすり減らしながら、バックドア付きWindows情報ダダ漏パソコンでお仕事。仕事終わりにコンビニに寄って添加物で出来たスイーツでおやつ。帰宅して、洗脳装置TVを見ながら抗生物質まみれの肉を頬張る。石油で出来た洗剤で体を洗い、フッ素入の歯磨き粉で歯を磨き、化学繊維の布団で寝る。寝ている間もスマホは粛々とあなたの生体データを取得している。

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おやすみなさいzzz

目覚めないように…

深く深くおやすみなさい

そして何も考えずに

なんとなく生きて

人のことは考えず

自分のことだけ考えて

なんとなく楽しく

お金を稼いで

お金を使って

全て使って

死んでいってほしいと

願っている奴らに

TVを使ってスマホを使ってニュースを使ってマスコミを使って政府を使って権力を使って全力であなたのあなたらしさ人間らしさを眠らせようとしている奴らが世界を動かしていますがそれでも自分は洗脳されていないと言えるでしょうか?

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こちらの動画を見てから考えてみてください。🎦QArmyJapanFlynn動画「THE PLAN TO SAVE THE WORLD」

 

あなたが思っている普通は

普通じゃない

あなたが思っている常識は

常識じゃない

この世の中は狂った奴らか支配してる

この世の中は嘘だらけだ

それに気づいたら…

RED PILL💊※

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✨おはようございます☺️🙏✨

ようやく目が醒めましたね💊

深い洗脳からの脱出

おめでとうございます

お覚醒めはいかがですか?

とりあえず珈琲でも飲んで

これからの事を考えましょう

もちろん一人ではありません

みんなで一緒に✨

「WWG1WGA」

「我ら一丸となりと共に進まん」

一人ではありません

共に進みましょう☺️🙏✨

※RED PILLとは映画マトリックスに出てくる覚醒のトリガーとなる赤い薬💊のこと。ひいては現代社会の洗脳から目覚めるきっかけを意味します。

 

引用ここまで

 

私達は世界に騙されているという思想

 開幕から「私達は世界に騙されている」という主張からはじまります。「朝起きて~」からの段落が彼らがどのように世界を“見てほしい”かを表しています。

 「洗脳装置TV」はTV番組が権力者によって作られていることを。「グリホサート入りのシリアル」はバイオ企業モンサント(すでにバイエルが買収したが告発ドキュメンタリー映画が有名であり陰謀論者の間ではモンサントのまま記憶されている)の有名除草剤ラウンドアップの主成分がグリホサートであり、その耐性を持つ遺伝子組み換えした作物種をモンサントが寡占していることを示しています。

 スマホは「位置情報」を発信し続けており、情報はほとんどが「フェイクニュース」と断言。おまけにあなたが大企業勤務であった場合、そこを「ディープステート企業」としています。パソコンのOSは「バックドア付き」で、スイーツには「添加物」、肉も「抗生物質」にまみれ、「石油で出来た洗剤」に「フッ素入の歯磨き粉」、「化学繊維の布団」とくれば、彼らの世界観は「生活のほとんどが人為的なもので支配されている」というものであることがおわかりいただけるかと思います。

 人為的なものしか周囲に存在しない。だが人為的なものに介入可能なのは我々でなく権力者である。故に権力者は我々を騙すことができる。このように陰謀論者は考えているのです。

 

社会参加の欠如

 生活のほとんどが人為的なもので占められているのは、そのように社会が発展したのだから当たり前です。陰謀論者たちは化学物質への強い忌避感を持っており、作用物質のみを抽出したり濃縮した添加物を嫌いますが、自然物も結局は同じ化学物質が含まれていることを無視しています。人為的なものに介入可能なのは我々でなく権力者という実感があまりに強く、企業が利用している科学を一般人も再現可能であることにまったく考えが及んでいないのです。

 権力者は我々を騙すことができる。これはもちろん正しい結論です。騙されないようにするために知識を身に着けなくてはいけない。ここまでは陰謀論者も正しい道筋で思考しています。ただし、その勉強方法が「陰謀論の動画を見ること」であるのが大きな間違いです。企業が信用できないならその製品を検証できるだけの科学知識を身につける。政治が信用できないならまずは市町村のモニター活動に参加して政治決定の現場を見る。これだけでも権力者や大企業が一般市民になにをしているかを一個人の視点から想像できるようになります。

 まず陰謀論者には社会参加意識が欠如していることになります。

 

人間性は人質に取られている

 つまり陰謀論における「勉強する」という用語は「権力者が悪事を行っているという情報を探す」か「人物や事件が我々の側か悪事を行っている側かを指摘する」ことを指しています。善悪の判断基準はとても曖昧です。大量消費社会がもたらした生の実感の欠如を悪としていることだけは感じられます。

 「人のことは考えず」「自分のことだけ考えて」「なんとなく楽しく」「お金を稼いで」「お金を使って」という文章から伝わってくる生の実感の欠如は馬鹿にすることができぬ深刻さを伴っています。家庭をもっていたり企業に勤めている陰謀論者もいるはずですが、社会参加の実感がない、あるいは社会参加できるだけの能力がないということになると、彼らが探すべきは自分をそのように追い込んだ悪でなく、生きがいという善でなくてはいけないのですが、Qアノンが語りかけてくるのは「あなたらしさ」「人間らしさ」という漠然とした言葉でしかありません。

 しかも「全力であなたのあなたらしさ人間らしさを眠らせようとしている奴ら」という言葉で表されている通り、悪を断罪する文脈で使用されているのです。取り戻すべき人間性の素晴らしさを語るのではなく、それが人質に取られているから重要である、いう意味合いでしかないのです。

 陰謀論は自身の善性を定義していません。それは彼らが悪とする存在への容赦の無さからも感じられます。善を為したいという欲望は一見すると優しげな言葉遣いから感じとれますが、仲間かそうでないかを分別しようとしているだけで、善性の希求からではありません。

 

なにを読み取って人はQアノンになるのか?

 ではQアノンになるためにはどうすればいいのか? 彼らの仲間になったら悪と戦えるのか? それにも明確な解答はありません。動画を見て「目覚める」ことがスタートとありますが、伝えられるのは悪が世界を支配しているという姿だけです。「悪が支配していることに気づくのが重要なのだ」ということでしょうが、気づいたところで何もしなければ、前述の文章の通り「なんとなく楽しく」人生を終えられる、と彼ら自身が語っているのです。

 つまりこの勧誘文は「あなたは人生になんとなく不満がありませんか?」「もっとすごい人生があり得たのだと思いませんか?」というメッセージなのです。社会参加というものにまったく考えが及んでいない人々の心をざわつかせるすごい文章だとお世辞抜きに思います。

 

RED PILL

 悪の支配に気づくことを指し、象徴的に繰り返される「目覚める」という言葉ですが、これはブログの補足解説にもある通り映画『マトリックス』のギミックです。RED PILLを飲むことにより、自分の世界が仮想現実であることに気づくという仕掛けになっています。他にも画像として『ゼイリブ』と『女王の教室』が使用されています。

 もちろん本家Qアノンが使用しているネットミームであることは承知していますが、日本Qアノンでも使用され、さらに『女王の教室』まで加わっていることが、彼らのコンテンツへの理解度の浅さを物語っており、重ねて社会参加への無理解も伝わってくるものとなっています。

 そもそも『マトリックス』が1999年、『女王の教室』が2005年という古い作品であり、『ゼイリブ』に至っては1988年です。それだけ長い間、作品の位置づけがどうだったか、監督や脚本がどのような意図でそれを描いたかについての考察をまったくしていないというのは、彼らが前後の文脈をまったく無視した切り抜きを行っているだけということを示しています(『ゼイリブ』の長いプロレスシーンや、『女王の教室』の『笑ってはいけない~』登場シーンをうまく引用できたらそれはそれで感心しますが)。おそらく『マトリックス』はシリーズ続編を、他二作に至っては全体を見てすらいないでしょう。

 そのため、象徴である「RED PILL」がなにかということは、重要であるにも関わらずまったく提示されません。それによって「目覚めた人々」が「共にに歩む」というイメージがあるだけです。ここから読み取れるのは、「コミュニティに参加せよ」というメッセージだけです。

 

与えられるのはコミュニテイだけ

 改めてこれまでの分析を振り返りましょう。

 「社会参加不全者」が「人生への不満を感じていないか?」と問いかけられ、「それが社会が悪に支配されているからだ」と解答を提示され、その後に与えられるものは「Qアノンというコミュニティ」である。これがQアノン勧誘への道筋です。

 だとすれば「Qアノンの本体とはコミュニティであり、そこで楽しむことが会員の活動である」と断言して良いのではないでしょうか? 『QArmyJapanFlynn』は「デモへの参加をお勧めしません」とさえしていますので、中心となって具体的な活動をする意志はいまのところはないと感じられます。

 となれば問題となってくるのは二点。「そのコミュニティとはどんなものか?」と「どうして危険な思想になってしまっているのか?」でしょう。

 

ネット掲示板文化から振り返る

 その疑問については、なぜわざわざ本家Qアノンがポップカルチャーの切り貼りであるネットミームを使用し、そのネットミームがまるで文脈を知らない日本のQアノンにまで伝わっているのか? を考えることで理解できると私は考えます。

 まずQアノンが誕生した掲示板である(現在ではQアノンは排除されている)『4chan』が『ふたば☆ちゃんねる』にあこがれて作り出されたものだということから振り返りましょう。

 『ふたば☆ちゃんねる』は文字掲示板であった『2ちゃんねる』の避難所として広まり、その内部に画像を貼り付けることのできる「板」と呼ばれる掲示板を持ったことにより人気を博します。当時(2000年代初頭)はサーバー容量の問題から画像を貼ることのできる掲示板は多くありませんでした。しかし、ユーザー個人はビデオボードや大型ハードディスクの普及などによりそれなりの容量の映像や画像を保持できるようになっており、画像を大勢で共有するという行為が大きなニーズを持っていたのです。

 高性能PCを持っていたユーザーが放送されている最中のアニメから切り取った画像を貼り付けることは「実況」と呼ばれて流行しました。高画質の画像を投稿できるユーザーはしっかりと周囲に存在を認知されていたものです。画像を拾う立場のユーザーはそれをPCの壁紙にしたり、コラージュに加工することに楽しみを見出しました。同人誌のページをスキャンして順番に貼り付けていき、全部集めると一冊の本になるという「連貼り」もブームでした。

 ご想像の通り著作権的には違法です。ですが、いずれも新技術によって実現した現象ですので、裁判的には判例が不足していました。現在でも違法アップロードは数が多すぎる場合、立件が難しい側面もあるくらいですので、当時としては尚更、ユーザーたちの意識において「違法であるとはわかっているがどう扱ったらいいのか?」という悩みは切実なものでした。違法アップロードされた同人誌の作者が掲示板ユーザーであったケースなど当たり前のようにありましたし、そういった倫理だけでなく「違法アップロードが掲示板全体の容量を圧迫するので邪魔」という実利面の問題もありました。

 法律による規制を期待できないユーザーは、独自の暗黙のルールを打ち立てていきます。「掲示板の保存する容量を越えたものは消去されるに任せる」ことや「掲示板内部で起きたことは外に持ち出さない(個人ブログ等で扱わない)」こと「掲示板参加時は匿名を厳密に守り自己顕示しないこと」などが自治のために定着します。「エンジョイ&エキサイティング」を標語とする(元は漫画『ベルセルク』のワンシーンに過ぎません)など、センスが良いかどうかによって行動の正否を判断することも尊重されました。

 『4chan』が憧れたのは、まさにこの空気でしょう。「犯罪かどうかでなくセンスが良いかどうか」が行動の規範であり「アニメ・漫画の画風やメッセージをセンスの根拠」としており、「コミュニティへの無償奉仕」が史上の価値なのです。アニメや漫画のファンが一時的に逃亡する仮想の国家として理想的な場所です。

 最先端であったのは贔屓目で見ても5年程だったでしょうが、その先進性も光っていました。「コラージュの結果、既存のキャラクターに別の設定が付与されてしまった」もの。つまりネットミームとされるものは『ふたば☆ちゃんねる』を大きな起源としますし、それは現在でもTwitterで流通しています。現在の日本ネット文化の多くに影響が見て取れますし、「あるキャラクターや事象に不特定多数が情報を付与することで新たな意味を持たせる」ことはまさにQアノンに引き継がれています。

 

換骨奪胎されたコミュニティ構築方法

 意識的にか無意識的にか、Qアノンはそのコミュニティ構築方法のみを引き抜いていきました。「犯罪かどうかでなく身内のノリを重視する」こと「アニメ・漫画のコラージュであるネットミームを共有する」こと「完全匿名でコミュニティへ無償奉仕する」ことがいわばネット上の秘密結社に都合が良かったわけです。

 身内ノリとネットミームは本来、早いスパンで変化することで機能を発揮するものです。話題が変化し続けることでコミュニティへの継続参加が促されるというわけです。ですがQアノンは、引用ブログの画像を参照すれば前述の映画群や「カエルのぺぺとドクターマリオのコラージュ」という古さです。最初に与えられたミームから更新されていない。これは彼らの知的活動の鈍さを表してもいますが、コミュニティに参加し続ける意欲を生み出す新規の話題を「真実めいた政治事情」へと移行したことを示しています。

 Qアノンから提供されるニュースは、それを読む限り「情報の真実らしさ」が重視されています。「重要な役職にある人が語ったことを裏読みするもの」や「入手された機密文書」、「写真に偶然写った物品のひねくれた解釈」、「インサイダーによる匿名での告発」がホットトピックです。

 Qアノンはかつてオタクたちが楽しんだ閉鎖空間の構造を利用し、そこに引きこもったのです。特に日本におけるQアノン活動は、もはや生きづらい人にコミュニティを与える意味しかないと私が考える意味はこれで理解いただけたと思います。

 では、なぜQアノンコミュニティが危険であり、それがある程度長く存続するだろうと考えているのか? そこはネット掲示板コミュニティが初期に持っていた「ある空気」が重要なのではないかと推測しているからです。

 

永続する革命

 『ふたば☆ちゃんねる』が持っていたのは「自分たちが先端である」という空気です。新しい技術に馴染んだ人々であったのだから当然ですが、技術面を除けばそれが根拠のないものであったことも確かです。かろうじて拠り所となったのは「流行を作り出せたこと」と「現行法で対処できないことを実行していた」くらいでしょう。それでも生きづらいアニメや漫画オタクがプライドを持ったことがここでは重要です。

 ですが「自分たちが先端である」というプライドは、そこに没頭する間しか持つことができません。匿名性が「個人を認知される」ことを妨げ、センスが重視されることが「理念による連帯」を妨げていたからです。これは「掲示板を読んでいる間だけは革命に参加している」という感覚を醸成しました。

 Qアノンコミュニティにも明確にそれは引き継がれています。掲示板から情報を得て、自分もそれに参加することは、「間違った情報に支配された遅れた人々に先駆けて、いずれ先端となる自分たち」を確認し合う行為なのです。

 もちろんその認識は、思想が存在せず、先端と錯誤できるのは他人から認められていないからに過ぎないのですが、そのためQアノンはコミュニティに参加する限り「永続する革命の高揚感を謳歌できる」のです。

 

中核だけは生き残る

 そのような実情から、Qアノンは新規プラットフォームが作成されるたび、そこを転々としながら生き残り続けると考えます。おそらくは「情報の真実らしさ」というセンスの泉が尽きるまで。というのもQからの一次情報提供は、最低限であれセンスや知識を要する(寄生する情報は正確である必要がある)からです。つまり、多くの人々にインパクトを与えるネットミームを生み出した初期Qは、かなり高い確度で心底からの陰謀論者ではありません。混沌を目指す心底からの加速主義者や、サブカルに通じるオルタナ右翼たち(長くなってしまうので意味は他でお調べください)が社会不安の増大やイタズラのためにQとして振る舞ったのでしょう。

 現状では、初期からコラージュが変化せず、政治団体特有のシンボル作成だけが上手くなっていくなどセンスの低下は明らかです。一次情報提供者が右派政治団体陰謀論者になってしまっていることを証明してしまっています。とはいえ、まだ新規の情報が提供される限りは、つまり右派ハッカーたちが完全に飽きるまではQアノンの中核は生き残ることになります。外部からは社会を混乱させるために。内部の人々は永続する革命を味わうために。

 

革命を実行しようとする者たち

 実のところ日本における『QAJF』の全員、そして米国のQアノンたちの大部分は「革命の気分」だけを味わっている。そこに実害がないことはすぐに理解できると思います。問題になるのは、外部に流失してしまった「革命」なのです。

 引用した勧誘文からも「革命の気分」は非常に強く伝わります。革命のための檄文であってもおかしくはない。『QAJF』は革命の気分だけを味わっていることを自覚してはいないのです。Qアノンの翻訳者であるEriなる人物は自覚しているため非行動を呼びかけているのでしょうが、メンバーは「自分たちが行動しないのは時が来ていない」ためか「目覚め、とは内面の問題で覚醒者が増えれば超常的な解決が待っている」と認識しており、行動しないのは社会参加についての知識も能力もないためである、という事実を直視する勇気はありません。

 それでも米Qアノンについての断片的な情報と檄文だけは外部にさらされます。これが反権力、反企業を実行に移す集団に利用されないわけがありません。今は『神真都Q』がそれらをまとめ上げて反ワクチンの過激活動を行っていますが、すべての陰謀論を否定しない構造がある限り、同じことが繰り返される可能性は高いでしょう。

 さらに行動せずSNSで発言するだけの無数の陰謀論者も、もはや「革命の実行者」となってしまっています。前述のように本家Qアノンは主流SNSよりBANされており、その発言は特殊SNSでのみ行われていますが、影響された陰謀論者は主流SNSでBANされるまで陰謀論を発言し続けることができるからです。そして現在の陰謀論は米国では政治利用されています。さらに現在では彼らはロシアの戦争を支持しています。

 

政治利用された陰謀論は本物のテロとなる

 現在進行系のロシアによるウクライナ侵攻ですが、ロシア側のプロパガンダに「ウクライナ政権はナチスでありロシア系住民が虐殺されている」というものがあります。陰謀論者はこれを鵜呑みにしており、さらにウクライナをディープステートであるという設定を付与しました。

 陰謀論者が唱えている説は革命を期待する空気を内包しています。この場合も世論として劣勢であるロシア側の正しさと勝利を願っているわけです。

 しかし、社会参加の実感の欠如から、表でそれを発言することの意味を陰謀論者たちは軽視していると言わざるを得ません。非人道的な軍事活動の正当化を拡散することは、彼らにとっては革命であっても、一般には騒乱支援です。

 言論としての主張は自由ですが、その言論が根拠を示せないものであれば人々から敬遠されます。危険性のある意見ならば指弾されることも当然です。そうなったとき、陰謀論者はその革命性にすがるしかなくなります。つまり少人数で可能な革命=テロに走るまではあと一歩でしかないのです。

 これは「だから陰謀論者を非難するな」という意見ではありません。Qアノンの影響力を減少させることが、無数の陰謀論者たちの団結を防ぐことになるということです。これからも陰謀論者が尽きることはないでしょう。であれば、ほぼすべての陰謀論の保存場所であるQアノンが力を失うことに意味はあります。

 

彼らは残るが影響力を減らすことはできる

 現実問題として陰謀論を完全になくすことは不可能でしょう。Qアノン、日本では『QAJF』も長く続くだろうと思います。

 しかし、その影響を受けないことはできる。

 『QAJF』は図らずも陰謀論の集積地として機能しています。つまり、そこに掲載されいる情報が網羅的であればあるほど相互に矛盾する不正確なものになっています。彼らの言葉を借りるなら「自分で考えましょう」。彼らが光側の人間として尊敬している人々は白人支配層です。トランプはワクチンを勧めています。そもそも彼らはそれほど強い匿名性に隠れていないのにせいぜいが白い目を向けられているだけで逮捕されていません。

 彼らは自分たちが行動しないことの利益に感づいています。自分たちの主張が嘘であった場合の保険をかけ続けています。他人が行動して自分たちの主張が本当だと証明されれば良いと考えているのです。彼らは「共に歩んで」はくれません。

 ならば彼らは間違っているのです。その影響下にある論説によって革命へと急き立てられていると気づいたならば、すぐに行動しないという選択をするだけで善行が行なえます。革命に参加しないことは簡単です。積極的に行動しようと勧めてくる人々から距離を置くだけです。最初は難しいと感じるかもしれませんが、例えば会合への参加を減らしていき、やがてメールへの返信も減らしていく。要はサボるだけで良いのです。

 

彼らはオタクのマネをしているに過ぎない

 紹介したようにQアノンは日本のオタクコミュニティを模倣した米国掲示板を乗っ取ったに過ぎません。使用されるネットミームもその際の残滓であり、各作品のクリエイターがその使用に賛同しているわけではありません。初期の主張さえもオタクによる悪ふざけです。

 その閉じたコミュニティに先進性や革命性を感じ、魅力的に映ったとしても、それは過去のオタクたちが自分たちをそうと信じて作り上げた器があるからです。Qアノンは明確に古臭く格好の悪いものなのです。

 

過去に落とし前をつける

 私がこの記事を書いたのは、過去に落とし前をつける意味でもあります。オタクコミュニティを醸成し、それを楽しんだ構成員の一人として。そして今でもコンテンツに関わる作家として表明しておかねばなりませんでした。

 オタクコンテンツも、過去の文学作品が思想を育んだように、知識人に引用・利用されるようになりました。前述の加速主義者やオルタナ右翼がもちろんそうであるように。

 さらに言えばプーチンが侵略を行った背景にはネオ・ユーラシア主義があり、それがオカルト的民族主義まで内包することを考えれば、思想もそれを弄ぶコンテンツも現実化する危険を常に孕んでいるのであると言えるでしょう。

 思想とそれを弄ぶ批評、それらを具体化するプラットフォームとコンテンツが危険であるとしても、それを安易な革命として暴発させる最底辺の人々について責任があるとは言いません。ただ、それを認識し、修正していくことは必要なのです。

ふたたび日本のQアノンについて(前編)

 以前、日本のQアノンとして『QArmyJapanFlynn』を紹介しました。あれから一年以上過ぎ、その後の状況も変化しましたので、少し触れてみたいと思います。ただ個人的な意見も多々入り込んでしまうでしょうし、Qアノンについては他のウォッチャーや研究者の方々も出てきていますので、陰謀論については多方面から情報収集されることをおすすめします。微力ながら研究者の方に協力できればと思い、クラスタ化する際に参考になりそうなワードも記しておきます。

 記事執筆の大きな動機は、Qアノンが日本における陰謀論の中核として居座る可能性が出てきたこと、そして当該HPで発見した“目覚めた”方の文章が皮肉抜きで“名文”だったためです。それが見事であればあるほど、非常に典型的な陰謀論への入り込み方を示しており、「なぜ人は陰謀論に染まってしまうのか?」そして「そうならないためにはどうしたらいいのか?」という問いにひとつの答えを出すものではないかと思えたからです。

 前段として反ワクチンとして一般化してしまった陰謀論について。そしてQアノンが日本陰謀論の中核になり得る可能性にについてを書いていきます。投稿は二回に分けて行うことになります。

 

その前に『神真都Q』のこと

 昨今の日本におけるQアノンの活動といえば『神真都Q』です。反ワクチンにおける過激な活動とインフルエンサーへの集金の組織化が話題となり、そのエスカレートが現在進行系であることなどから批判、分析の記事も多く出ています。雨宮純様のnoteが参考になるまとめですので、そちらをご覧になると良いと思います。

note.com

 

『神真都Q』はQじゃない?

 すると日本のQは『神真都Q』に統一されたのか、と思ってしまいそうになりますが、『QArmyJapanFlynn』(略称QAJF)はまだ活動を行っていました。該当HPはこちらになります。

qajf.github.io

 ここで2022/1/3の記事として上がっているのが「“Q”という文字を表記したデモ活動を行っている団体は『QAJF』とは無関係」という主張です。このことが『神真都Q』と『QAJF』との対立を示しているわけではありませんが、『神真都Q』の中心人物がQアノンの思想をそれほどしっかりとは取り込んでいないことや、宗教団体のように集金、コミューンを作ろうとしていることなどから「『神真都Q』はQアノンの異端カルトである」と位置づけてよいでしょう。

 

右派論壇は中心ではなくなった

 一方、かつて日本のQアノンたちの中心であった右派のデモはどうなったかを見ていきましょう。その主催者たちは統一した見解の下で団結することはできなかったようです。中心となっていたのは以前の記事で紹介した右派論壇の人々ですが、主催の大規模なデモを行った様子はありません。Qアノンに共感する人々の興味が反ワクチンに移ってしまったこともあるのでしょう。

 それでも馬渕睦夫は昨今、注目された一人です。元駐ウクライナ大使であったという経歴が信憑性を持っているため、ウクライナ侵攻についての彼の見解を述べたYouTube陰謀論者に多く引用されています。

 馬渕睦夫の動画は、現状ではロシアのプロパガンダを肯定し、そのまま拡散するものになっています。もはや様々な意味で彼の危険度は高く、新たな信奉者を増やしている(それはそれで問題である)のですが、彼が中心になって運動が起こっている様子はありません。

 というのも右派論壇でもロシアのウクライナ侵攻によって意見が分かれることになってしまったからです。実に頭の痛いことですが、現在のQアノンの主流見解は「プーチンが光側(スピリチュアル的に正義の意)であり、ウクライナ侵攻は闇のDS(ディープステート)との戦い」というものです。結果、反中国共産党系の右派論壇が過去の自らの発言を裏切るかどうかという判断に迫られたことが見て取れます。

 

中心が複数になったQアノン系陰謀論

 観測する限り、Qアノンの名を掲げた集団は多くありません。地域の知り合いの小集団やネット上でのクラスタ陰謀論の主な担い手です。そのためQアノン系陰謀論であると知らずに信じている人もいるようです。元々が疑似科学陰謀論であったのが、Qアノン系を採用して合流、という様子も見られます。中核に置かれている話題はざっと下記に分かれるようです。

・DS実在論

 「隠れた巨大政府が世界を支配しており、それに抵抗しなくてはならない」という主張です。Qアノンの基本思想であり、トランプが左派敵視したため日本の右派と主張が合致したこと、過激化するポリコレへの反発、などが大きく、日本でも依然として主流です。最近では「ウクライナ政府はネオナチ」など積極的にロシアを善の側であると発信しています。一般に知られている以外では、ホワイトハット、カバール、売電(バイデンのこと)などの用語でクラスタリングできます。

・反ワクチン

 元々は疑似科学代替医療関係の人々が多く採用している陰謀論です。全人類がワクチンを射つべきという風潮が世界支配を連想させたこと、構成集団が疑似科学系とかぶっていたことなどがあり、DS実在論の人々はほとんどが反ワクチンです。一方で自然派と称する化学調味料、食品保存料への忌避感が強い層の反ワクチンはDS実在論とは限りません。しかし、自然派との合流で草の根ネットワークが張り巡らされてしまったこと、具体的に行動が起こせることなどから、Qアノン系とされる人々の興味の中心はこちらに移っており、ノーマスクデモやワクチン接種会場襲撃、反ワクチンビラ配布など小規模なテロが各地で勃発してしまいました。イベルメクチン、空間除菌、などは当然として、なんと、自然塩、でも重なりが大きそうです。いかにもありそうなEM菌とは少ないのが面白いところです。

・スピリチュアルと雑多なオカルト

 スピリチュアルは二元論的な代替宗教として以前から存在していましたので、やはりDS実在論とは一部のみが重なっているに過ぎません。トランプ、プーチン、バイデンなど政治家や要人を光と闇に分類していくのがDS実在論におけるスピリチュアルです。驚くことに、要人の名前+光or闇、でクラスタリングできます。

 スピリチュアルはDS実在論と一部のみが重なるだけなのですが、Qアノン陰謀論の中でも影響力のある思想となっています。DS実在論の中心も「目覚める」という用語を多用していますし、善悪できっちり陣営を分けてしまうことも特徴です。思考のベースが非常にスピリチュアル的なのです。

 ただし表面に出てくる陰謀論は「宇宙人によるDS支配」や「過去の超文明」、「超能力の肯定」、「セレブが人間の血を飲んでいる」などであるため、DS陰謀論の中でも統一見解とはなっていません。それでも内部で議論があるわけではないのですが。

 ゴム人間 アドレノクロム、レプティリアン、フラットアース、マッドフラッド、タルタリア帝国、などでクラスタリングできますが、用語の組み合わせによってはまったく重なっていないパターンもあり、個々人が勝手にやっている側面が伺えます。

 

本家Qアノンに立ち戻る

 このように日本では拡散してしまったQアノンの活動ですが、本家Qアノンの動きを見てみましょう。

www.huffingtonpost.jp

 このように正体が明らかになったと発表されていますが、これはまったくダメージにならなかったようです。そもそもごく初期から噂されていた二人ですので、なにを改めて、というところでしょう。現在の中核投稿者が誰であるのか? それは組織だっているのか? が注目点であるとは思いますが、おそらく「誰もが勝手に中心になれる」のであろうと推測できます。例えば、昨年の5月に米国の退役軍人会から反民主党政権の公開書簡が出され、これがQアノンの主張する選挙違反疑惑に基づいたものでした。政治的に信憑性があると目される立場の人々が公然と陰謀論を語っているわけです。日本では馬渕睦夫が自身の世界観を補強するためにこれを引用しており、説に信憑性を与えてしまいました。米国には日本の元ウクライナ大使が肯定したことのみが伝播していることでしょう。作家としてはシェアード・ワールドの構築にも似ていると考えさせられます。

 

本家に近い『QArmyJapanFlynn』

 本家Qアノンの人々は、米国の右派が主に使用しているSNSである『Gab(ギャブ)https://gab.com/』で活動しています。ネオナチ、白人至上主義、オルタナ右翼など他のSNSを追い出されるような主張の持ち主の安息の地とされています。トランプ本人が開設したSNSは2月末に使用開始ですので、そちらへの移行はこれからであろうと思われます。

 『Gab』は、過去にはなんと未成年ポルノ等、ダークウェブでしか流通しない画像や話題が許されていたため、日本でも一部好事家たちが登録していたのですが、段々とそちらの規制は強化されてしまい、今では日本人はほぼ活動していません。

 しかし『QArmyJapanFlynn』のメンバーは『Gab』に日本語アカウントを持っています。そして、現地での投稿を翻訳して紹介しているのです。

 

『QArmyJapanFlynn』の活動

 そのため『QAJF』の主張は、米国Qアノンのそれの直輸入となっています。その主張は前述のもの以上でありません。

 (引用)QAJFは、社会的に強い立場の人の意見だけがまかり通るような、偏った世の中を変えたいと思っている一般市民の集まりにすぎず、Wikipedia に書かれているような「Qアノン」ではありません。(引用ここまで)

 という自己像を持っていますが、ここで紹介した陰謀論のすべてを下記ブログで扱っています。

qajf.officialblog.jp

 このように『QAJF』はすべて網羅したQアノンなのですが、それだけでなく、積極的に仲間を増やそうとしていることは特徴のひとつでしょう。ポスティングやYouTubeなどでの広報を行っており、「自分で考えよう」「有名人や地位の高い人は悪」「マスコミは嘘」などが思想的中心であるEriというハンドルネームで語られています。

 次回で触れますが、『QAJF』の思想は、権力者への憎悪がベースとなっていることがそのホームページからよくわかります。「自分で考える」ことを推奨しているようでいて、主流の意見に反対することが正しい知性であると考えており、その点で非常に団結しやすいことがうかがえます。

 

これからのQアノン

 つまり「すべての陰謀論を肯定する」存在がQアノンであり『QAJF』である、といってよいでしょう。結果的に成立してしまったこの参加者に優しく平等なシステムは非常に強固なつながりを弱者にもたらすと思われます。

 『神真都Q』は危険なカルトになりつつあるものの、反ワクチンで集まったスピリチュアルや自然派の構成員たちが離れていくことも容易に想像できます。集金やコミューン作りに欲を出してしまった以上、ヒエラルキーの構築に伴う内部抗争は避けられないからです。

 米国Qアノンコミュニティと『QAJF』は長く存続し、各種陰謀論の中核になる可能性が高い。私はそう予想します。もちろん外れるに越したことはない予想なのですが。

 

 次回は『QAJF』の“目覚めた”方の文章を引用し、その思想の魅力と恐怖について書いていこうと思います。

戦争と人文知

 ロシアによるウクライナ侵攻はますます激化し、世界の反応もそれに従って苛烈なものになってきています。平和を願うのは当然として、(当事者も世界も)最悪の結果を避けるために戦うのもやむなし、というのが現状でしょう。たとえ戦争が終わっても、その処理は時間のかかる困難なものになることは間違いありません。

 気になるのは、世界にあまた起こった紛争、戦争のうち、ここまで影響力のあった戦争は二次大戦後ではなかったということです。多くの人が衝撃を受けていることが観測できますし、私自身も大きな精神的ショックを受けています。

 この戦争は他の多くの紛争とどこが違うのでしょうか? 大国が大国に侵略したことだけではないでしょう。それについて考えた結果、私見ながら興味深い結論に至りましたので、ここに記しておくことにします。

 

世界が無視するかしないか

 規模で言えばフォークランド紛争はかなりのものでした。しかし二国間の領土紛争であったこと、戦地が世界にとって馴染みのない島であったこと、アルゼンチンにおける軍事政権が倒されたことなどが重なり、世界が苛烈な反応をするものではありませんでした。

 中東、アフリカにおける紛争や悲劇も、慣れっこになっているということや、独裁者の存在など不安定な地域であることなどにより、反戦や支援の運動が盛り上がるということはありません。

 最近では、特にシリアとウクライナは比較されます。「欧米での騒ぎ方が違うのは差別意識が働いている」という指摘もあり、それもかなりの面で正しいことも見て取れます。

 「いわゆる欧米に被害が及ばなければ“世界”が動いたことにはならない」のは悲しいながら事実でしょう。そこが他の紛争との最大の違いであった、と見ることができます。

 となれば「“世界”とは欧米のことである」という皮肉めいた見方をしてしまうことや、欧米の傲慢さに立腹する人がいるのも理解できます。が、それだけが我々が受けている衝撃の理由なのでしょうか? そう考えたとき、見えてくるのはロシア側の論理を我々が受け入れていないということでした。

 

世界観が大規模な衝突を起こしている

 ロシアは開戦時、NATO=欧米への不審を演説において語っています。

www3.nhk.or.jp

 ならば「“世界”とは欧米のものではない」という意見が引き起こした戦争であるという見方をすることになります。

 ウクライナNATO加盟希望へと繋がる流れはここでは精査しないとして、ロシアが欧米型の価値観に挑戦したことは特筆すべきであり、衝撃的だったと受け取るべきでしょう。領土問題に武力を使ったことを踏まえ、日本も危ないという危機感だけが我々を揺さぶっているわけではありません。大きな価値観の違いが衝突を起こしたことを自覚させられたからでしょう。自由主義世界と専制主義世界がついに衝突したというショックです。

 

自由主義は情報の強さを軸にしている

 無論、我々多くの日本人は欧米の常識で世界を見ています。それ以外の判断はちょっとできないと言ってもいい。独裁や宗教原理主義で国が運営され、情報があふれるという意味での豊かさを享受できない世界の人々の幸福というものを想像はできても、もはやその状態になろうとは微塵も思わない。物質的に豊かでないことを拒否するのはもちろん、情報を豊かにしようという欲望にも抗えない。それが醜いほどの貪欲さを自覚させられ、情報強者が傲慢になっていくという欠点があったとしても、情報の豊かさは物質の豊かさと同等かそれ以上に人間を突き動かしているのです。

 民主主義、自由主義社会は、功利主義的に見ても、情報を最大化する方向で社会を運営していることは間違いありません。人権思想は奴隷生活を是としません。人間個人は、たとえ独自の見解を発表せずとも、その人生においてなんらかの情報発信の可能性を持たなくてはいけないということです。

 日本はそういう国になっているのです。

 

情報力は正義ではない

 しかし情報の豊かさは正義ではありません。情報それ自体を純粋な力として考えるべきでしょう。武力が正義でないように、情報も濫用すると被害を及ぼします。小さいところでは人間関係に被害を及ぼす根も葉もない噂、少し大きくなればネット炎上、さらに大きくなればスキャンダルによる政治家の失脚など想像することができます。これらは情報の正確さよりも面白さ、本当らしさが優先されていることを示しています。正しいことをしているのに叩かれた人、あるいはまったく無関係なのに被害にあってしまった人などいくらでも思い当たります。

 ロシア側の主張に理がないとしても、感情的に情報という暴力に反発したのだ、という見方は可能です。多様ではあるものの人間のありのままの姿を見せつけてくる文化は、一面では醜悪でもあり、暴力的でもあります。

 

我々は正しい側に立っているのか?

 それがそのような世界観のぶつかり合いだったとして、我々は正しい側に立っているのでしょうか? 一般に共感力の高い人ほど、上記のようなことを知れば「我々が正しい側であるということを疑おう」、「情報も暴力なのだから多数派は“力の支配”を行っている」、「少数派であるロシアにも正しさはある」と考えてしまうようです。

 とはいえ「情報が面白くさえあれば無理が通ってしまうというならば、“力の支配”が大手を振っていることになりはしないか?」という問いは本質的なものでしょう。「いわゆる“世界”なんて欧米のことじゃん」という反語に戻ることになるわけです。

 自由主義=情報の力。そこについてひとりひとりが考える必要が出てきたのでしょう。

 

情報のぶつかり合いはネット炎上も同じ

 情報の力。大上段に構えましたが、すでに我々日本の個々人は体験としてそのことを知っていることに気付かされます。情報の濫用について述べた際「噂話から政治家の失脚まで」と語りました。そうです、我々はネットの炎上で、世界観の衝突について知っているのです。反ワクチンから一部フェミニスト、Qアノンに至るまで、述べてきたような世界観の衝突であると見て取れます。少数派が情報弱者であることと、情報の制限や規制を積極的に行っていることも共通項です。

 ロシアの戦争でさえ「大小さまざまな炎上にさらされたロシアが爆発した」ととらえられます。「さすがに大国家なのだからそのようなことはないだろう」と思うならば、上のリンクに示したものと、それ以前に行われた演説を読むべきです(長いので大変ですが)。世界観の衝突が実感でき、歴史的事実について独りよがりな視点を持っていることが理解できます。

news.yahoo.co.jp

 

戦後に残る傷について考えよう

 我々を不安にさせるのは、多数派が間違っていた場合、そして自分が少数派になってしまった場合にどうすればよいのか? という抽象的な問いと、今後に見出すべき教訓、つまり荒廃したウクライナとロシアの人々が持つであろう世界観を我々の世界観と衝突させないようにする方法の困難さです。

 ウクライナの復讐の論理。新たなる建国の伝説による兵士や政治家の英雄化。

 ロシアのプライド失地回復のために発生する過激派。ロシアへの他国からの蔑視。

 すでに心配している人も多いこれらの問題が控えています。

 

内面で規範として働く仮想の“みんな”

 それらについて考えるため、炎上に立ち戻りましょう。

 炎上は多数が少数の意見に反対した際に起こりやすいです。それが起こってしまったときどうするか? 起こさないためにはどうするか? それについて見ていきます。

 誰でも思いつくのは、自ら情報を発信して、その扱いと性質を事前に知っておくことです。受ける、バズる、そういう情報がどんなものであるか馴染んでおく。自らが発信せずとも、バズったものを目にして、それらの共通項を考えておく。「みんなこういう情報が好きなんだな」と予期しておくわけです。そうすると、自然と“仮想のみんな”が精神の中に立ち上がってきます。

 この個々人の中にある“仮想のみんな”は、情報を見たとき「これは面白いなぁ」「これは炎上するぞ!」「これは叩かれるべき意見だなぁ」などと判断してくれます。自分の正直な意見であっても「みんなはこれを叩くだろう」と予期するとき、その“仮想のみんな”という人格が働いていることになります。

 この概念は、ルソーが各種“○○意志”と呼び、記号論者が追求した“読者”のような漠然とした理解しにくい存在ではありますが、個々人はそのようにして自分の意見と社会とを繋げているわけです。

 この規範を持っておくことは炎上の可能性を引き下げてくれます。とはいえ、自分の意見が“仮想のみんな”と異なるとき、そして“仮想のみんな”同士がぶつかるときこそが問題になるのは前述の通りです。

 

“仮想のみんな”の強さが情報の力

 “仮想のみんな”が一致している人数が何人か? それによって情報の強さが計れることは理解できると思います。そして“仮想のみんな”が異なる集団同士のぶつかり合いではその数の比べ合いになる……それも自然なことです。ロシアにおいては「統一ロシア帝国の復活」という物語が受ける。欧州においては「統一ロシア帝国とか百年じゃ利かないくらい古い思想だ」という物語が受ける。そのぶつかり合いにおいて、ロシア側は劣勢であることに自覚的であったがために、軍事力で覆す可能性に賭けた。そういう姿が見えてきます。

 

人間は仮想の意見を複数用意できる

 ここで、たとえ自分の意見が一般的でないものであったとしても、多数派の“仮想のみんな”を想起することはさほど難しくないことを思い出す必要があります。「みんなはこれを叩くだろうなぁ」という想像です。ロシアの反体制派も、欧州の過激派も、自分がどんな“仮想のみんな”を面白くないと思っているかは正確に知っているのです。だとすれば、逆に、たとえ実際にはそうしないとしても、自分が賛同していない層に受けるような言説を想起することはとても簡単であることも理解できるでしょう。

 たとえ反ワクチンの陰謀論のような極端なものであれ、情報の発信と観察に慣れていれば、彼らの言説をコピーし、新たな陰謀論を生み出すことなど造作も有りません。我々は他人の意見、つまり誰かの“仮想のみんな”に受け入れられる意見を用意できるのです。

 

“仮想のみんな”は変容する

 個人の意見と“仮想のみんな”の意見が一致していたと実感できたとき、人間は大きな幸福を感じます。自然な気持ちの吐露がバズった、書いた小説が売れた、そのような瞬間です。

 ですが、自然な意見が叩かれたとき、同様に絶望も深くなります。かといって“仮想のみんな”に自分の意見を合わせてしまうと屈服したような気分になります。敵対する“仮想のみんな”の力が強いほど恐怖と孤独を感じますし、少数派の“仮想のみんな”を探してそちらに同化しようとしてしまいます。

 ここで自由主義社会のテーゼに立ち戻りましょう。それは情報の極大化です。多様な意見を認めることや、少数の意見を消滅させないことが情報の極大化に繋がります。情報は資本と違い独占することが極大化を妨げますので、その伝達量を尊ぶことになります。変化しない情報は伝達量を低下させますので、素早い変化が重要になります。

 とすれば“仮想のみんな”は、それを共有する仲間を増やすことを重視しつつも、それ自身が変化していくことに、より重きをおいていることになります!

 自分の意見は変えられないとしても、自分がいちばん大事にしている“仮想のみんな”を変えていくことは可能です。そして、そうでなければ、少数派で変化の少ない“仮想のみんな”を相手にすることになります。それこそが陰謀論専制主義に繋がる考え方なのですから、先にあげた疑問「多数派が正義とは限らない」と「少数派になってしまったときどうすればいいか?」の答えは「“仮想のみんな”を固定化しないことだ。現在の多数派も正しく変容し得るし、少数派からも離れられる」となるでしょう。それは自分の意見を曲げることより難しくはないはずです。

 

人文知の強さ

 今回の戦争において“ナラティブ”という単語がクローズアップされたり、人文知の重要性が語られるようになったりしていますが、それは多くの人に期待されているように「情報戦の諸相」や「人間同士の対話の可能性」を示してくれるものではないようです。

 意見が異なる者同士がぶつかったとき、マクロな局面では情報量の多い意見が勝利する。であれば、人間が伝えうる情報とはどんなもので、それをどう取り扱えば極大化できるか? それについて考えるのが人文分野で、実践するのが物語ということになります。

 戦争を止めることはできないかもしれません。ネット炎上すら止めることは難しいでしょう。意見が異なる場合、対話で解決できないことは多くあります。それでも、物語の力や、人文知を信じる……それは美しい言葉のようでいて、圧倒的に情報があふれる未来を築き上げることによって、平和という言葉では表現できない奇妙な変容し続ける統一体を作り上げる意志の表明なのかもしれません。

 

結び

 もちろん“物語”がきちんと効果を発揮していることも理解しています。SNSで発信されていた幸福な街の様子。平時に言語の壁を超えて交流した人々。そんな積み重ねがあったことがこの戦争の注目度に直結しています。さらに自国のコンテンツを通じて文化に親しみを持ってもらうことが力になる。日本もさらにコンテンツを発信していかなくてはならないことも自明です。それがわかっているのなら、人文知の力を語るとき、このように迂遠なことを書く必要はない。そうも思います。

 とはいえ、圧倒的な暴力を目の前にしたとき、その根源について考えることで平静を保てることもあるのではないか、とこれを書いていて思いました。自分の“仮想のみんな”が多少なりとみなさんのそれと一致していると良いのですが。

多数派に旗印を持つ必要なし

 日本時間で言えば本日の昼、ウクライナにロシアが侵攻(この言葉の選び方にもいろいろあるのですが)しました。先日の記述ではある程度濁していましたが、明確にプロパガンダに属する情報も出てくることでしょう。

 

本物の陰謀がより身近に

 この日本にあっても、そしてこのなんでもない日記においても、暴力を背景にして強いられた論陣、背景を知らずに影響を受けた論者たちの言論が展開されていないとは限りません。陰謀がまさに身近にある世界がやってきたわけです。

 

火遊びは厳禁

 我々ができることはおかしな論をきっちり見分けられるようにしておくこと、暴力に訴える者に口実を与えぬための言論を展開していくことが重要になってくるでしょう。正論であっても明確に反対論や否定論を打ち立てることが危険であるばかりか、暴力を振るう口実に繋がってしまいます。スラングで言えば“京都仕草”とでもなるでしょうが、陰謀に立ち向かうためには必要になるかと思います。

 

プラットフォームを残す

 言論を展開するためのネット空間の多くは企業によって運営されています。その削除や凍結の基準は明確ですので、それをはみ出さずにプロパガンダに抵抗していくために、無視して日常を送っていくことも日本においては重要でしょう。プラットフォームはできるだけ多い方がいいのですから。

 

内心を明確に吐露するなかれ

 単純化して言うなら見出しの通りとなります。陰謀論を楽しみながら叩いていける世界がまた来るといいですね。

陰謀論で世界を見る

 年が明けて一ヶ月以上が経過し、昨年末に行った予想がオープンレター問題として現実になったばかりか現状ではすでに飽きられている、という時代の早さに戸惑う日々を送っています。

 世界を見てみればウクライナにロシアが攻め込むかどうかという状況になっており、我が国からは遠い問題であるものの、陰謀論ウォッチャーとしては現在進行系の本物の陰謀を目にすることに後ろめたい興奮を覚えてしまっています。

 

ロシアからの情報をそのまま流す人々

sakisiru.jp

 引用した記事にある通り、ある種の人々がロシア側に立つ論陣を日本のマスコミにおいて張っており、彼らがクレムリンからの情報をそのまま流していることが伺えます。引用記事にある通りの事実誤認により偏向情報と理解できますので、一部の新聞や有識者は、いわばミトロヒン文書なしで見分けることのできるエージェントであると断言できます。我々は現在進行系の陰謀をはっきりと目撃できているわけです。

 

プーチン偽史を信じているか?

 ここで話はロシアからの陰謀に含まれる陰謀論のことに移ります。プーチンは政策を論文という形で事前に発表することで知られています。ウクライナ侵攻の準備として“ウクライナ人とロシア人は同一民族”という趣旨の論文を書いているのです。

 これは明確に偽史に属する論です。いわば陰謀論

 ただここで疑問を抱く人も多いことでしょう。「プーチンは本当にそれを信じているのか?」と。嘘を無知な国民に信じ込ませようとしているのか、自分でも信じてしまっているのか。それによってウクライナへの固執は違った意味を持ってきますし、各国首脳によるプーチンへの説得困難度も変化するはずです。

 もちろん常識的に考えれば信じていないはずなのですが、逆の立場で考えてみると、少し面白い可能性が見えてきます。

 

陰謀論のジレンマ

 互いに心から陰謀論を信じているか疑わしい場合を考えてみましょう。

 今回のケースで言えば、ロシアが自由主義陣営を「自由主義はお題目でありリアリズムのパワーゲームをしている」ように見ている可能性です。

 ただその可能性が成り立つ場合、ロシアサイドが自由主義以外の価値を信奉していることも正しいことになってしまいます! これは困りました。我々はある程度自由主義はお題目ではないことを知っていますが、互いに常識的な判断のもとに議論を行うと、リアリズムに基づくパワーゲームのみが問題になり、永遠に陰謀論は議題に登らないことになります。

 再度言えば、ロシア側が偽史を本当に信じている可能性はかなり低いのですが、同様に自由主義も人権もそう思われている可能性があるということです。

 

リアリズムによる陰謀論加担

 ロシアの主張をそのまま流す人々のほとんどは「ロシアは拡大主義をとっているだけで実利のために動いている」と信じているでしょう。自分の関係していることは陰謀であって、陰謀論ではない、と信じたいのは当然です。リアリズムとして世界をとらえることは、陰謀論に加担してしまっている可能性からの逃亡でもあるのです。

 いまやナチスを比喩に使うことこそ野蛮であるわけですが、そのナチスにしてからが当時でさえ「まともな政権がユダヤ陰謀論を根拠に行動に出るはずがない」と思われていたのです。「プーチンウクライナ人とロシア人が同一民族と唱える」こと「習近平が五輪晩餐会において皇帝しか用意しないようなテーブルについた」こと「トランプがQアノンのキャッチフレーズをSNSに書き込む」ことなどは、はたして「信者を騙すためのポーズ」なのでしょうか?

 日本国内において「総理が独裁政権を築こうとしている」と主張することこそ陰謀論ではありますが、互いにリアリズムのパワーゲームをしていると信じると状況を見誤るのかもしれません。

 

陰謀論世界観

 陰謀論を拡大して考えれば、それは世界観ということでもあります。どうあれ国家はある種の宗教によって求心力を持つ以外に存在のしようがなく、根底を考えてみれば非科学的な同一民族神話や、不合理な超存在への信仰を「まとまるための方便であっても」信じている。これは多くの陰謀論と同じ構造を持っているわけです。

 我々は何の陰謀によってまとまっているのか。個々人はどんな漠然とした陰謀論を信じているのか。これらはリアリズムを是とした際には議論できません。文芸の機能のひとつはその議論を行うためのものであるはずです。陰謀論を基本として世界を考えるのも面白いのではないでしょうか。

新年のご挨拶

 あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願いいたします。

 波乱の予感のある今年、皆で乗り切ってまいりましょう。

 個人的には紳士としての振る舞いを身につけることを遠大な目標として掲げたいと思っております(紳士の定義=紳士が絶対にしないことを紳士的に行える人物)。

来年の予想と炎上忌避の空気

今年の業界動向

 先の日記でも少しだけ書きましたが、昨今ではポリコレやフェミニズムを軸とした表現規制論が盛んになっています。パワハラの告発にも代表される権力勾配の暴力性についても周知されることとなってきました。それらがもたらすキャンセルカルチャーの是非も新鮮な話題です。

 少し先回りをして、炎上への強い忌避が生まれた年だった、とここではまとめてしまいましょう。

 砕けた言葉で表現すれば「パワハラするようなヤツはパージされて当然」なので「普段からジェントルでない人とは仕事をしたくない」し、「人種やジェンダーの平等には賛成だけどキャンセルカルチャーには同意できない」から「過激に平等運動している人と同じコミュニティにいると思われたくない」けれど「過激化した平等運動家を表立って嘲笑する人とも距離を置きたい」という気分、となるでしょうか。

 

来年は政治の季節?

 とはいえ炎上を含む論争であっても利害関係かからむ以上、なされないわけにはいきません。有名漫画家の立候補もあり、来年は政治の季節になるかもしれません。

 政治の季節で忘れてはいけないのは、のめり込むとその後の人生をすべて失う、ということです。炎上への忌避も大半の人がそれを知っているからに他なりません。過激化した運動家の主張や行動を見ているだけで、それが一般のコミュニティにいられない人であることはすぐにわかる、というのも理由でしょう。運動家はもはや陰謀論者と見分けがつきません。

 覚悟して政治闘争をしている人が最警戒されているのは当然として、政治分野について触れがちな人や、異性についての言及がおかしい人、他人の作品を批評しがちな人、はては単なる「イタイ人」さえも要注意としてマークされ、いざ炎上したならばパージできる空気がコミュニティ内に醸成されているのを感じます。

 

敬遠される人にならないために

 「イタイ人」にならないことを意識するのは難しいとしても、発言に気をつけなければいけない時代になったのは確実でしょう。政治や言論が我々にとってぐっと身近なものになってしまったからです。

 人格をネット上に公開している人はすべて「まだ売れていない芸能人」なのだ、という比喩がぴったりくるでしょうか。有名人が妙なことを書いて炎上すると“我々無名の一般人は別だが、あなたのような影響力がある人がやってはいけない”という論調が目立ちましたが、ハンドルネームが家族や会社に知られているなら、彼らからすれば“あなたのような影響力がある人”なのです。

 

知人が敬遠される人になる可能性は高い

 しかし、どれだけ気をつけていても、誰もが「イタイ人」になってしまう可能性は昨今、ぐっと増えてしまいました。「過激な政治闘争に走ってしまい関係が壊れた人」という大昔の革命戦士の逸話のようなことから、「アマチュアの活動にプロがエアリプで説教してしまう」という卑近なことまで、あなたや私にふりかかるかもしれない。

 家族や仕事仲間が炎上しそうな言動を繰り返しているときの空気感は、信頼していた人が宗教や陰謀論にはまってしまった不安と恐怖に似ています。一時の気の迷いや冗談ならいいのだけれど、このままそれが続くならば周囲から白眼視されることは確実。おかしなところを指摘して自分が普段とはズレていたと気づいてもらえれば良いけれど、多くの場合向こうが腹を立ててしまい溝が深まるばかり……。そんな嫌な気持ちです。

 

炎上忌避が行きすぎないと良いけれど

 やはり「炎上した人間をパージする空気」が不健全なのでしょう。誰もがそうなる可能性が高いのだから、関係性がギスギスするだけの風潮です。隣人が炎上しそうな言動を繰り返すようになってしまったときの説得テクニックは研究されるべきでしょうし、家族やコミュニティは言動で失敗した人間を上手に許す姿勢を持たなければならないのでしょう。一時の熱狂でおかしくなっていた人がすべてを失うことを繰り返してはいけないのですから。

 

それでも闘争はやってくる

 一時の熱狂でなくとも、必要に迫られて政治闘争をしなければならない未来になってしまう可能性が高い、というのも悩ましいですね。表現規制問題はエンタメ業界には死活問題で、理不尽な要求は突っぱねなければならない。その過程で闘争を担ってしまった人は味方から「パージ候補」と見なされてしまう。もちろん過激になってしまったらそれもやむなし、ということになりますので、戦う人もいろいろ自覚は必要になってくるはずです。

 では何を自覚したら良いのか?

 私は昔からいわゆるゼロ年代批評に端を発するエンタメ業界の批評界隈をファンとして眺めていました。そこで批評界隈に毒されたばかりに狭い閉鎖世界に行ってしまった人を何人も見てきました。批評界隈でのそのような失敗は、昨今の風潮を先取りしていたとも言えるでしょう。ですからそこから学んだ失敗の本質を示しておくことで、戦わない我々のために闘争してくれる人々への餞にしたいと思います。

  1.  批評家の多くが政治に意見することを闘争への参加だと認識していませんでした。反対者から攻撃されても気づいておらず、きまぐれな群衆が気分で叩いているだけという論陣を張りました。それを繰り返していけません。そして現在の表現規制議論への参加は明確に政治闘争なのです。
  2.  批評家は批評や分析が暴力であることに気づいていませんでした。作品の批評を行う際、ファンの内心を勝手に分析し、多くの場合「現実で叶えられなかった欲望の歪んだ発露である」としました。たとえ褒めるだけの作品批評であってもそれが作者当人への暴力になっているのだという認識を持たなくてはなりません。
  3.  批評家は大衆が賢いことを認めませんでした。大衆が叩いた作品を擁護する論陣を張る際、公然と「多くの日本人はこんなこともわからない」と言い切りました。そこまで直接的でなくとも批評家が新たな視点として述べたことはすでに多くの人が論じ終えていたことでした。他人が知っていることを改めて指摘することは他者の知性や経験を侮っている証拠です。大方の人がおかしいと思っている論者を晒し上げるのも同様です。
  4.  批評家はすべてに自らの納得を優先しました。批評対象を理解しようとすることを歩み寄りであると誤認しており、その理解すら自分の尺度で認識できることに対象を押し込めるものにすぎなかったのです。政敵の主張を理解しようとすることが自らの納得感を優先しているだけでないかは振り返ってみる必要があります。

来年は良い年だといいね

 そんな感じで今年の総括と来年への展望を締めくくりたいと思います。

 繰り返しますが、現時点で「政治論争にいっちょかみして敵陣営を誹謗している人」は、それが闘争だと自覚していないという意味で語源通りのボンクラ(賭場の流れが見えていない)ですし、「異性や性的なことに対する視線がおかしい人」や「体制側にまわってしまったことを自覚せず批判がパワハラになってしまう人」を擁護することはもはや無理です。身近な人や所属コミュニティにいられなくなるような行いは慎みたいです。

 来年は闘争が穏やかに決着し、炎上忌避の空気も和らぐと良いですね。