戦争と人文知

 ロシアによるウクライナ侵攻はますます激化し、世界の反応もそれに従って苛烈なものになってきています。平和を願うのは当然として、(当事者も世界も)最悪の結果を避けるために戦うのもやむなし、というのが現状でしょう。たとえ戦争が終わっても、その処理は時間のかかる困難なものになることは間違いありません。

 気になるのは、世界にあまた起こった紛争、戦争のうち、ここまで影響力のあった戦争は二次大戦後ではなかったということです。多くの人が衝撃を受けていることが観測できますし、私自身も大きな精神的ショックを受けています。

 この戦争は他の多くの紛争とどこが違うのでしょうか? 大国が大国に侵略したことだけではないでしょう。それについて考えた結果、私見ながら興味深い結論に至りましたので、ここに記しておくことにします。

 

世界が無視するかしないか

 規模で言えばフォークランド紛争はかなりのものでした。しかし二国間の領土紛争であったこと、戦地が世界にとって馴染みのない島であったこと、アルゼンチンにおける軍事政権が倒されたことなどが重なり、世界が苛烈な反応をするものではありませんでした。

 中東、アフリカにおける紛争や悲劇も、慣れっこになっているということや、独裁者の存在など不安定な地域であることなどにより、反戦や支援の運動が盛り上がるということはありません。

 最近では、特にシリアとウクライナは比較されます。「欧米での騒ぎ方が違うのは差別意識が働いている」という指摘もあり、それもかなりの面で正しいことも見て取れます。

 「いわゆる欧米に被害が及ばなければ“世界”が動いたことにはならない」のは悲しいながら事実でしょう。そこが他の紛争との最大の違いであった、と見ることができます。

 となれば「“世界”とは欧米のことである」という皮肉めいた見方をしてしまうことや、欧米の傲慢さに立腹する人がいるのも理解できます。が、それだけが我々が受けている衝撃の理由なのでしょうか? そう考えたとき、見えてくるのはロシア側の論理を我々が受け入れていないということでした。

 

世界観が大規模な衝突を起こしている

 ロシアは開戦時、NATO=欧米への不審を演説において語っています。

www3.nhk.or.jp

 ならば「“世界”とは欧米のものではない」という意見が引き起こした戦争であるという見方をすることになります。

 ウクライナNATO加盟希望へと繋がる流れはここでは精査しないとして、ロシアが欧米型の価値観に挑戦したことは特筆すべきであり、衝撃的だったと受け取るべきでしょう。領土問題に武力を使ったことを踏まえ、日本も危ないという危機感だけが我々を揺さぶっているわけではありません。大きな価値観の違いが衝突を起こしたことを自覚させられたからでしょう。自由主義世界と専制主義世界がついに衝突したというショックです。

 

自由主義は情報の強さを軸にしている

 無論、我々多くの日本人は欧米の常識で世界を見ています。それ以外の判断はちょっとできないと言ってもいい。独裁や宗教原理主義で国が運営され、情報があふれるという意味での豊かさを享受できない世界の人々の幸福というものを想像はできても、もはやその状態になろうとは微塵も思わない。物質的に豊かでないことを拒否するのはもちろん、情報を豊かにしようという欲望にも抗えない。それが醜いほどの貪欲さを自覚させられ、情報強者が傲慢になっていくという欠点があったとしても、情報の豊かさは物質の豊かさと同等かそれ以上に人間を突き動かしているのです。

 民主主義、自由主義社会は、功利主義的に見ても、情報を最大化する方向で社会を運営していることは間違いありません。人権思想は奴隷生活を是としません。人間個人は、たとえ独自の見解を発表せずとも、その人生においてなんらかの情報発信の可能性を持たなくてはいけないということです。

 日本はそういう国になっているのです。

 

情報力は正義ではない

 しかし情報の豊かさは正義ではありません。情報それ自体を純粋な力として考えるべきでしょう。武力が正義でないように、情報も濫用すると被害を及ぼします。小さいところでは人間関係に被害を及ぼす根も葉もない噂、少し大きくなればネット炎上、さらに大きくなればスキャンダルによる政治家の失脚など想像することができます。これらは情報の正確さよりも面白さ、本当らしさが優先されていることを示しています。正しいことをしているのに叩かれた人、あるいはまったく無関係なのに被害にあってしまった人などいくらでも思い当たります。

 ロシア側の主張に理がないとしても、感情的に情報という暴力に反発したのだ、という見方は可能です。多様ではあるものの人間のありのままの姿を見せつけてくる文化は、一面では醜悪でもあり、暴力的でもあります。

 

我々は正しい側に立っているのか?

 それがそのような世界観のぶつかり合いだったとして、我々は正しい側に立っているのでしょうか? 一般に共感力の高い人ほど、上記のようなことを知れば「我々が正しい側であるということを疑おう」、「情報も暴力なのだから多数派は“力の支配”を行っている」、「少数派であるロシアにも正しさはある」と考えてしまうようです。

 とはいえ「情報が面白くさえあれば無理が通ってしまうというならば、“力の支配”が大手を振っていることになりはしないか?」という問いは本質的なものでしょう。「いわゆる“世界”なんて欧米のことじゃん」という反語に戻ることになるわけです。

 自由主義=情報の力。そこについてひとりひとりが考える必要が出てきたのでしょう。

 

情報のぶつかり合いはネット炎上も同じ

 情報の力。大上段に構えましたが、すでに我々日本の個々人は体験としてそのことを知っていることに気付かされます。情報の濫用について述べた際「噂話から政治家の失脚まで」と語りました。そうです、我々はネットの炎上で、世界観の衝突について知っているのです。反ワクチンから一部フェミニスト、Qアノンに至るまで、述べてきたような世界観の衝突であると見て取れます。少数派が情報弱者であることと、情報の制限や規制を積極的に行っていることも共通項です。

 ロシアの戦争でさえ「大小さまざまな炎上にさらされたロシアが爆発した」ととらえられます。「さすがに大国家なのだからそのようなことはないだろう」と思うならば、上のリンクに示したものと、それ以前に行われた演説を読むべきです(長いので大変ですが)。世界観の衝突が実感でき、歴史的事実について独りよがりな視点を持っていることが理解できます。

news.yahoo.co.jp

 

戦後に残る傷について考えよう

 我々を不安にさせるのは、多数派が間違っていた場合、そして自分が少数派になってしまった場合にどうすればよいのか? という抽象的な問いと、今後に見出すべき教訓、つまり荒廃したウクライナとロシアの人々が持つであろう世界観を我々の世界観と衝突させないようにする方法の困難さです。

 ウクライナの復讐の論理。新たなる建国の伝説による兵士や政治家の英雄化。

 ロシアのプライド失地回復のために発生する過激派。ロシアへの他国からの蔑視。

 すでに心配している人も多いこれらの問題が控えています。

 

内面で規範として働く仮想の“みんな”

 それらについて考えるため、炎上に立ち戻りましょう。

 炎上は多数が少数の意見に反対した際に起こりやすいです。それが起こってしまったときどうするか? 起こさないためにはどうするか? それについて見ていきます。

 誰でも思いつくのは、自ら情報を発信して、その扱いと性質を事前に知っておくことです。受ける、バズる、そういう情報がどんなものであるか馴染んでおく。自らが発信せずとも、バズったものを目にして、それらの共通項を考えておく。「みんなこういう情報が好きなんだな」と予期しておくわけです。そうすると、自然と“仮想のみんな”が精神の中に立ち上がってきます。

 この個々人の中にある“仮想のみんな”は、情報を見たとき「これは面白いなぁ」「これは炎上するぞ!」「これは叩かれるべき意見だなぁ」などと判断してくれます。自分の正直な意見であっても「みんなはこれを叩くだろう」と予期するとき、その“仮想のみんな”という人格が働いていることになります。

 この概念は、ルソーが各種“○○意志”と呼び、記号論者が追求した“読者”のような漠然とした理解しにくい存在ではありますが、個々人はそのようにして自分の意見と社会とを繋げているわけです。

 この規範を持っておくことは炎上の可能性を引き下げてくれます。とはいえ、自分の意見が“仮想のみんな”と異なるとき、そして“仮想のみんな”同士がぶつかるときこそが問題になるのは前述の通りです。

 

“仮想のみんな”の強さが情報の力

 “仮想のみんな”が一致している人数が何人か? それによって情報の強さが計れることは理解できると思います。そして“仮想のみんな”が異なる集団同士のぶつかり合いではその数の比べ合いになる……それも自然なことです。ロシアにおいては「統一ロシア帝国の復活」という物語が受ける。欧州においては「統一ロシア帝国とか百年じゃ利かないくらい古い思想だ」という物語が受ける。そのぶつかり合いにおいて、ロシア側は劣勢であることに自覚的であったがために、軍事力で覆す可能性に賭けた。そういう姿が見えてきます。

 

人間は仮想の意見を複数用意できる

 ここで、たとえ自分の意見が一般的でないものであったとしても、多数派の“仮想のみんな”を想起することはさほど難しくないことを思い出す必要があります。「みんなはこれを叩くだろうなぁ」という想像です。ロシアの反体制派も、欧州の過激派も、自分がどんな“仮想のみんな”を面白くないと思っているかは正確に知っているのです。だとすれば、逆に、たとえ実際にはそうしないとしても、自分が賛同していない層に受けるような言説を想起することはとても簡単であることも理解できるでしょう。

 たとえ反ワクチンの陰謀論のような極端なものであれ、情報の発信と観察に慣れていれば、彼らの言説をコピーし、新たな陰謀論を生み出すことなど造作も有りません。我々は他人の意見、つまり誰かの“仮想のみんな”に受け入れられる意見を用意できるのです。

 

“仮想のみんな”は変容する

 個人の意見と“仮想のみんな”の意見が一致していたと実感できたとき、人間は大きな幸福を感じます。自然な気持ちの吐露がバズった、書いた小説が売れた、そのような瞬間です。

 ですが、自然な意見が叩かれたとき、同様に絶望も深くなります。かといって“仮想のみんな”に自分の意見を合わせてしまうと屈服したような気分になります。敵対する“仮想のみんな”の力が強いほど恐怖と孤独を感じますし、少数派の“仮想のみんな”を探してそちらに同化しようとしてしまいます。

 ここで自由主義社会のテーゼに立ち戻りましょう。それは情報の極大化です。多様な意見を認めることや、少数の意見を消滅させないことが情報の極大化に繋がります。情報は資本と違い独占することが極大化を妨げますので、その伝達量を尊ぶことになります。変化しない情報は伝達量を低下させますので、素早い変化が重要になります。

 とすれば“仮想のみんな”は、それを共有する仲間を増やすことを重視しつつも、それ自身が変化していくことに、より重きをおいていることになります!

 自分の意見は変えられないとしても、自分がいちばん大事にしている“仮想のみんな”を変えていくことは可能です。そして、そうでなければ、少数派で変化の少ない“仮想のみんな”を相手にすることになります。それこそが陰謀論専制主義に繋がる考え方なのですから、先にあげた疑問「多数派が正義とは限らない」と「少数派になってしまったときどうすればいいか?」の答えは「“仮想のみんな”を固定化しないことだ。現在の多数派も正しく変容し得るし、少数派からも離れられる」となるでしょう。それは自分の意見を曲げることより難しくはないはずです。

 

人文知の強さ

 今回の戦争において“ナラティブ”という単語がクローズアップされたり、人文知の重要性が語られるようになったりしていますが、それは多くの人に期待されているように「情報戦の諸相」や「人間同士の対話の可能性」を示してくれるものではないようです。

 意見が異なる者同士がぶつかったとき、マクロな局面では情報量の多い意見が勝利する。であれば、人間が伝えうる情報とはどんなもので、それをどう取り扱えば極大化できるか? それについて考えるのが人文分野で、実践するのが物語ということになります。

 戦争を止めることはできないかもしれません。ネット炎上すら止めることは難しいでしょう。意見が異なる場合、対話で解決できないことは多くあります。それでも、物語の力や、人文知を信じる……それは美しい言葉のようでいて、圧倒的に情報があふれる未来を築き上げることによって、平和という言葉では表現できない奇妙な変容し続ける統一体を作り上げる意志の表明なのかもしれません。

 

結び

 もちろん“物語”がきちんと効果を発揮していることも理解しています。SNSで発信されていた幸福な街の様子。平時に言語の壁を超えて交流した人々。そんな積み重ねがあったことがこの戦争の注目度に直結しています。さらに自国のコンテンツを通じて文化に親しみを持ってもらうことが力になる。日本もさらにコンテンツを発信していかなくてはならないことも自明です。それがわかっているのなら、人文知の力を語るとき、このように迂遠なことを書く必要はない。そうも思います。

 とはいえ、圧倒的な暴力を目の前にしたとき、その根源について考えることで平静を保てることもあるのではないか、とこれを書いていて思いました。自分の“仮想のみんな”が多少なりとみなさんのそれと一致していると良いのですが。