来年の予想と炎上忌避の空気

今年の業界動向

 先の日記でも少しだけ書きましたが、昨今ではポリコレやフェミニズムを軸とした表現規制論が盛んになっています。パワハラの告発にも代表される権力勾配の暴力性についても周知されることとなってきました。それらがもたらすキャンセルカルチャーの是非も新鮮な話題です。

 少し先回りをして、炎上への強い忌避が生まれた年だった、とここではまとめてしまいましょう。

 砕けた言葉で表現すれば「パワハラするようなヤツはパージされて当然」なので「普段からジェントルでない人とは仕事をしたくない」し、「人種やジェンダーの平等には賛成だけどキャンセルカルチャーには同意できない」から「過激に平等運動している人と同じコミュニティにいると思われたくない」けれど「過激化した平等運動家を表立って嘲笑する人とも距離を置きたい」という気分、となるでしょうか。

 

来年は政治の季節?

 とはいえ炎上を含む論争であっても利害関係かからむ以上、なされないわけにはいきません。有名漫画家の立候補もあり、来年は政治の季節になるかもしれません。

 政治の季節で忘れてはいけないのは、のめり込むとその後の人生をすべて失う、ということです。炎上への忌避も大半の人がそれを知っているからに他なりません。過激化した運動家の主張や行動を見ているだけで、それが一般のコミュニティにいられない人であることはすぐにわかる、というのも理由でしょう。運動家はもはや陰謀論者と見分けがつきません。

 覚悟して政治闘争をしている人が最警戒されているのは当然として、政治分野について触れがちな人や、異性についての言及がおかしい人、他人の作品を批評しがちな人、はては単なる「イタイ人」さえも要注意としてマークされ、いざ炎上したならばパージできる空気がコミュニティ内に醸成されているのを感じます。

 

敬遠される人にならないために

 「イタイ人」にならないことを意識するのは難しいとしても、発言に気をつけなければいけない時代になったのは確実でしょう。政治や言論が我々にとってぐっと身近なものになってしまったからです。

 人格をネット上に公開している人はすべて「まだ売れていない芸能人」なのだ、という比喩がぴったりくるでしょうか。有名人が妙なことを書いて炎上すると“我々無名の一般人は別だが、あなたのような影響力がある人がやってはいけない”という論調が目立ちましたが、ハンドルネームが家族や会社に知られているなら、彼らからすれば“あなたのような影響力がある人”なのです。

 

知人が敬遠される人になる可能性は高い

 しかし、どれだけ気をつけていても、誰もが「イタイ人」になってしまう可能性は昨今、ぐっと増えてしまいました。「過激な政治闘争に走ってしまい関係が壊れた人」という大昔の革命戦士の逸話のようなことから、「アマチュアの活動にプロがエアリプで説教してしまう」という卑近なことまで、あなたや私にふりかかるかもしれない。

 家族や仕事仲間が炎上しそうな言動を繰り返しているときの空気感は、信頼していた人が宗教や陰謀論にはまってしまった不安と恐怖に似ています。一時の気の迷いや冗談ならいいのだけれど、このままそれが続くならば周囲から白眼視されることは確実。おかしなところを指摘して自分が普段とはズレていたと気づいてもらえれば良いけれど、多くの場合向こうが腹を立ててしまい溝が深まるばかり……。そんな嫌な気持ちです。

 

炎上忌避が行きすぎないと良いけれど

 やはり「炎上した人間をパージする空気」が不健全なのでしょう。誰もがそうなる可能性が高いのだから、関係性がギスギスするだけの風潮です。隣人が炎上しそうな言動を繰り返すようになってしまったときの説得テクニックは研究されるべきでしょうし、家族やコミュニティは言動で失敗した人間を上手に許す姿勢を持たなければならないのでしょう。一時の熱狂でおかしくなっていた人がすべてを失うことを繰り返してはいけないのですから。

 

それでも闘争はやってくる

 一時の熱狂でなくとも、必要に迫られて政治闘争をしなければならない未来になってしまう可能性が高い、というのも悩ましいですね。表現規制問題はエンタメ業界には死活問題で、理不尽な要求は突っぱねなければならない。その過程で闘争を担ってしまった人は味方から「パージ候補」と見なされてしまう。もちろん過激になってしまったらそれもやむなし、ということになりますので、戦う人もいろいろ自覚は必要になってくるはずです。

 では何を自覚したら良いのか?

 私は昔からいわゆるゼロ年代批評に端を発するエンタメ業界の批評界隈をファンとして眺めていました。そこで批評界隈に毒されたばかりに狭い閉鎖世界に行ってしまった人を何人も見てきました。批評界隈でのそのような失敗は、昨今の風潮を先取りしていたとも言えるでしょう。ですからそこから学んだ失敗の本質を示しておくことで、戦わない我々のために闘争してくれる人々への餞にしたいと思います。

  1.  批評家の多くが政治に意見することを闘争への参加だと認識していませんでした。反対者から攻撃されても気づいておらず、きまぐれな群衆が気分で叩いているだけという論陣を張りました。それを繰り返していけません。そして現在の表現規制議論への参加は明確に政治闘争なのです。
  2.  批評家は批評や分析が暴力であることに気づいていませんでした。作品の批評を行う際、ファンの内心を勝手に分析し、多くの場合「現実で叶えられなかった欲望の歪んだ発露である」としました。たとえ褒めるだけの作品批評であってもそれが作者当人への暴力になっているのだという認識を持たなくてはなりません。
  3.  批評家は大衆が賢いことを認めませんでした。大衆が叩いた作品を擁護する論陣を張る際、公然と「多くの日本人はこんなこともわからない」と言い切りました。そこまで直接的でなくとも批評家が新たな視点として述べたことはすでに多くの人が論じ終えていたことでした。他人が知っていることを改めて指摘することは他者の知性や経験を侮っている証拠です。大方の人がおかしいと思っている論者を晒し上げるのも同様です。
  4.  批評家はすべてに自らの納得を優先しました。批評対象を理解しようとすることを歩み寄りであると誤認しており、その理解すら自分の尺度で認識できることに対象を押し込めるものにすぎなかったのです。政敵の主張を理解しようとすることが自らの納得感を優先しているだけでないかは振り返ってみる必要があります。

来年は良い年だといいね

 そんな感じで今年の総括と来年への展望を締めくくりたいと思います。

 繰り返しますが、現時点で「政治論争にいっちょかみして敵陣営を誹謗している人」は、それが闘争だと自覚していないという意味で語源通りのボンクラ(賭場の流れが見えていない)ですし、「異性や性的なことに対する視線がおかしい人」や「体制側にまわってしまったことを自覚せず批判がパワハラになってしまう人」を擁護することはもはや無理です。身近な人や所属コミュニティにいられなくなるような行いは慎みたいです。

 来年は闘争が穏やかに決着し、炎上忌避の空気も和らぐと良いですね。