作家を続けること

 かなりベテランの作家さんが「読者からの反応が無くなった。これは自分の小説が面白くなくなったということだから辞める」という趣旨の長文を書いて無期限の活動休止をされるということがありました。これには「そもそも感想って書きにくい」や「読者に感想を強要するようで嫌」、「黙って辞めろ」などの批判意見があり、肯定的なものでは「やはり感想がないとつらい」や「報酬があってこそ制作の意味がある」などがありました。

 しかしながら、多くの作家が辞めていくことに特に理由など必要ではなく、辞めたくなったらただ辞めるのみであるというのは、当然のことというか、強制されて書かされているのでない以上は自然発生するものであるというのは知っておいて良いことかと思います。

 とはいえ、それと呼応するかのように同タイミングで流れてきた超ベテランの作家さんによる「知り合いが自分の小説を読んでいなかったことがショックだった」という回想には、いろいろと思うところがあります。いくつか論旨を大雑把に分けて最初に書くとすれば、「小説は読みづらい」「時代とともに読みやすさは変わる」「そもそも小説は読めない方向に進化していく」となるでしょう。順に見ていきます。

 結局、読者からの反応が無ければ、小説を読んでもらう喜びは存在しません。Twitterでの公開やリンクにRT、いいね、などの機能はあり、小説サイトにもビュー数は出るし、スタンプ投稿が可能なサイトもありますが、そもそも読んでいるかどうかはそれらの機能では大まかにしか推し量れません。時代がどれだけ進もうとも、文章を読む能力は個人依存であり、どれだけ能力の高い人間でも読む速度には限界があります。いわゆる“速読”は内容を大幅に省略して読む技法なので、小説には向いておらず、読後に内容を確認した場合、間違っていることが多いというのは付記しておく必要はあるでしょう。さらに、速度の問題だけでなく、内容を把握し、感想を持ち、それを表現するとなると、訓練が必要となるばかりか、小説そのものが感想をもらいやすいものでなければ、一部の人しか感想を言えないことになるであろうことは想像できるかと思います。

 それならば、感想が書きやすい、反応がしやすい小説を全作家が目指せば良いということにもなりかねませんが、そもそも、小説をわざわざ読みづらい=感想をもらえないように書く、ということはまれです。それは読めないように書くと同義だからです。それでも感想をもらいやすい、もらいづらいというものがあるのは、出来の良し悪しはもちろんあるものの、多くの場合は時代や流行の影響を強く受けている(あるいは与えている)からです。古典を読むには訓練が必要です。しかし、古典の多くは当時では非常に読みやすいものであった場合が多く、時代の変化が早い今では、ライトノベルと呼ばれた黎明期の作品ですら、古さ、つまり読みにくさを感じるものになっています。

 さらに、前提を覆すようではありますが、小説の上達は、小説をどんどん読みづらいものへと変化させていきます。複雑な物語を書けるようになると、当然ながら読み取りにも技術が必要になってきます。物語が斬新なものであれば、それをどう評価して良いのかわからないことになるでしょう。複雑な感情を書けるようになると、さらに読み取りの難度は上がります。読めるように努力して書くのは当然ながら、技法を使わない、新しいことを書かない、という方向に努力するのも難しいものです。

 このように、作家を続けることは困難です。いや、時代に合わせて変化しつつ、新しいものを書くのは困難と言い換えるべきでしょう。そして、前者と後者が意義的には矛盾するものでないはずなのに、実際には矛盾することがその困難さをよく表しています。新しいものは時代に寄り添ったものでは決してなく、偶然そうなったのでなければ、技術を要するからです。

 いわゆる通俗作家とみなされるライトノベル業界でも、長く活動を続けるとなると、これらのいわゆる文学面での困難が待っています。末席であっても低俗と思われていようと(あるいは思われていればいるほど)小説は小説なのです。作家におかれましては技術向上から逃げぬよう、読者におかれましては難読と感じられるものに向き合う余裕のあるように願うばかりです。

さらに小説から考える

 先日の話からさらに一歩踏み込んでみようと思います。「作家SNSのフォロワー数の多いことが出版条件となる是非」論争の根底にある考え方についてです。

 それは多くの人が「売上以外にも小説の価値はある」と考えているということです。Twitterで上がった意見を見てみれば、作家側からも読者側からもそれは見て取れます。もちろんそれは良いことです。売上(あるいは閲覧数)を基準でなく価値にしてしまえば、バズ競争のみが重視される世界となり、情報商材屋、サロン商法、政治極論デマ屋、などが展開している風景が小説界でも見られるようになってしまうでしょう。

 しかし“売上以外の価値”が何であるかは難しいところです。過去に小説が持っていた価値は、メディアの進歩により次々と剥奪されてきたからです。共通話題の提供、私小説的ゴシップ、個人的悩みの思索と解決、流行語の創設、特殊な感情への名付け、告発ジャーナリズム……それら列挙しても足りないほどの社会的役割=価値が小説よりも機能的なメディアに奪われていきました。結果、現在では“知的選民であるというポーズ”か“小説的と評される漠然とした何か”以外に小説の必要はない、と必然的に言い切れることになります。そのため、小説は他メディアでそれらの価値の実現がコスト的に高価な場合、代替として用いられている、というのが正直なところです。「売上以外にも小説の価値はある」という考えは実に儚く脆いものなのです。

 そこで小説の低コストが他メディアよりも積極的に生きる局面を考えてみましょう。素直に考えれば、それは“多様性”ということになるでしょう。他メディアでストレートに言い切れば誤解されるような深い考えも小説ならうまく表現できます。人間の複雑な思想や行動を様々な視点から提示することができる小説ならではです。それを低コストで届けることが可能なので、表現する作家も増えます。シーンそのものが多様性を持ちます。“多様性”こそ“小説的と評される漠然とした何か”のひとつでしょう。

 ところが、この価値も現在、危機にあります。先の“編集者が読むべき作品の多さ”を近年になって発生した高コストの事象として認識すべきだからです。良質な作品が増えたことが小説の良さを殺すという逆転現象が起きているのです。皮肉にも多様性を受け止めることそのものが高コストなのです。

 同時に多様性を称揚する昨今の社会運動も高コスト化をはらんでいると必然的にわかってきます。LGBTすらカテゴライズされた多数の人々です。さらに多様な細分化が可能で、しかもそれが必要なことをネット上の小説が教えてくれます。

 今小説に求められているのは「この小説の価値はこれだと広報される」ことか「必要な人にその要素を満たす小説を届ける」ことでしょう。その実現がどのようなシステムを必要とするのかはまだわかりませんが、実現のための努力が小説に寄与し、さらには社会の問題解決のヒントになることすらあるのではないかと考えます。

出版のために作家SNSのフォロワー数が必要、という話から

 最近話題になったトピックに「編集者が作家のSNSフォロワー数を条件に書籍化を決めている」というものがありました。「本を出したいなら一万フォロワーくらいいないと」というところです。

 この話への反応は「作家にも広報能力が必要になった」とか「広報は版元の仕事なので無理筋」とかいろいろありましたが、関連して諸々考えたことがあったので日記にしてみます。

 自分は、いわゆる“依頼原稿”と“事前公開原稿”の狭間にいる世代でしょう。依頼原稿は「編集者と打ち合わせて企画書を出し、その後執筆するもの」で事前公開原稿は「執筆し、小説サイトに掲載したものの出来に応じて編集者が企画書を書いて出版する」ものという理解でお願いします。

 往時、作家は「新人賞に応募し、受賞した場合、作家になる」という認識でした。最初は常に事前公開原稿で、その後、依頼原稿に移行する、というスタイルだったわけです。現状でこのスタイルが崩れているのは御存知の通り。事前公開原稿のみにライトノベル業界は移行しつつあります。

 作家がSNSでフォロワーを増やしておくべきかどうか、という問題は、事前公開原稿の評価軸にバズったかどうかが採用されているからである、と言っても良いでしょう。反論としてあげられる「バズっても売れないことがある」や「それなら編集者はいらない」などは、この前提があってのものです。ですが、そもそも小説においてヒット数はもはやそこまで問題にはなりません。長文を読むのはコストが高いため、バズった作品でも後半まで読まれたかはすぐに判明してしまいます。

 それでは、依頼原稿のみが良い作品をコンスタントに作れるのか? というと、これは難しいところがあると思います。依頼原稿の良いところは作家の実力がわかっていることと編集者が企画そのものに手を入れられることにありますが、それは事前公開原稿のスタイルでも、作家との打ち合わせ後に書いてもらうだけで十分に可能だからです(企画が出版の約束になっていない点は問題として残りますが)。

 そこで求められるのは、事前公開原稿スタイルでの出版の欠点を潰す方向であるのは間違いありません。そして、そこでの欠点とは「バズったものを右から左に流すだけ」という指摘されがちなこととは明確に違う構造上の問題でしょう。

 それは「編集者が読むべき作品が無限に増えていく」ことです。

 私はもちろん趣味でも小説サイトの小説を読みますが、昨今、かつてとは比較にならないほど公開作品の技術は向上しています。いわゆる「なろう小説」と呼ばれる主要トレンドのものはすでに文章においても独自の様式に進化していますが、それ以外の作品、つまり一般エンタメから純文学と呼ばれる分野においても、小説サイト公開作品の文章レベル向上は目覚ましいものがあります。良い作品を見逃さないために、編集者が読むべき作品は無限に増えていくのです。

 さらに、同じ原因からあらたに生じる問題点もあります。良い作品が今後も増え続けることは、逆に「傑作は一人の作家が続けて書けるものではない」という事実も明確にしてしまうことでしょう。レベルの底上げは市場に傑作しか必要ないことを証明してしまうのです。

 いずれにせよ、作家というものは職業になりえないという時代が近づいてきているのでしょう。出版のためにフォロワー数が必要、という話からこのように考えました。

Brain Free : Paranoid Blues / 脳髄自由人の殺戮パラノイド・ブルース

 新作はじめました!

novelup.plus

 今回はサスペンスとかスリラーと呼ばれるジャンル。これまで書いてきたものと大きく違うのは、自分自身が対象読者に入っていることです! いままでは商業作品を書いてきたことが多く、若年層に主に常にニーズを考えて企画を立ててきましたが、たまには自分と同じような年齢層や嗜好の人間をターゲットにしてもよかろうと思いまして。

 暴力! 恐怖! 犯罪! 流血! それらをポップに描いていく予定です。毎回ごとに引きがあり、ジャンルすらがらりと変わるような驚きをもたらすことを目指しています。

 長編になりますので、どうかよろしく!

コロナ不戦日記2

 前回の日記後に緊急事態宣言が出され、延長中である現在ですが、個人としての生活は遊びがかなり減ったものの、精神としては以前と変わらぬもので、相変わらず何もしないをしているという状態です。

 世間はよりやかましくなり、知的な人も倒閣を叫ぶわ、差別と反差別の声が大きくなるわと目を背けたくなる惨状が広がっております。元より信頼性においてはいまいちである文系の言論界も、主流意見は「社会資産や人間性を維持するために自粛をやめるべき」と何故だかむしろ保守的で以前からの主張を忘れたかのようなものであり、世間知に寄り添った形である「新しい生活様式を生み出そう」という政府提案とは真っ向から反対するものとなっております。まぁ昔から逆張りが仕事みたいなもんだからそうなるでしょうなぁ、と思いつつ、個人的には自分の行動様式に変化が必要ないため、肩をすくめるだけだという具合。

 とはいえ、厭世観に浸っているわけにもいきません。「こういう機会だから新しい生活様式に適した小説を!」と意気込んでは見たものの、何も言うべきことがなく、ただ時間だけが過ぎていきます。まいったね。新しい生活様式がどんなものかわかっていないからというのが主原因と思えば、我々にできることは新しい生活とやらを作り上げていくことだと思えば、多少はワクワクできるかもしれません。変わりなくても、それはそれで。

コロナ不戦日記

 まぁコロナで世間がえらいことになっているわけですが、個人としての生活は元々が引きこもりなんで変わりなく、この先に世界規模で経済的な影響が起きたら困るなぁ、と不安に思っている程度。できることといったら個人が病気にかからぬよう用心することくらいで、なにより重要な自らの顔面を手で触らないことは励行していたりはするわけです。

 ブログを長いこと書かなかったことに理由はなく、それでもいま日記的なものを書いているのは、内面に変化が少しばかりあったからで、それは戦中に戦争的なものを忌避していた人々の気持ちがわかったような気になったということだったりします。

 コロナにおいては海外首脳がよく戦争に例えているわけで、まぁ政府が主導で国民が一致して目標に向かって動かねばならぬという意味で事実そうなのでしょうが、そういうふうに世間の風潮が向かってしまうと、生来の人嫌いが頭をもたげてくるものなのでしょう。戦争的なものを忌避するというのは、実のところ反戦行為を忌避することも含むわけで、現状でいうならば、普段政治的な話をしない人が「財政出動が不十分だ」とか「政府が強権をきちんとふるうべきだ」などと言い始めることからも遠ざかりたい気分になっているのです。

 目の前の困難を見ないことにしたいという正常性バイアスなるものが働いていることもわかっていますが、わざわざイベントを開いたり参加したり用もないのに人混みに外出したりする気ははなからないわけで、危機感はあるにはあるのですが、どうもなんというか“その気にならない”。

 怖がりたくないし、強く出たくもない、ましてやコロナ大喜利にも乗りたくない。勝ちたくないし、負けたくもない。死にたくないけど生きたくもない。

 まぁ、そんな最近です。

『チケット・トゥ・ライド拡張:日本マップ』をプレイ

 『チケット・トゥ・ライド拡張:日本マップ』をプレイしましたよ!

チケット・トゥ・ライド拡張:日本/イタリアマップ 多言語版

チケット・トゥ・ライド拡張:日本/イタリアマップ 多言語版

  • 発売日: 2020/02/28
  • メディア: おもちゃ&ホビー
 

 しかし、すごい箱絵です。昭和感を出しつつ、新幹線は新しいという。

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日本は細長いと嫌でもしらされる。

 本作は『チケット・トゥ・ライド』の拡張版ということで、本家ゲームがないと遊べませんが、日本人なら拡張ごと買うべきだろう、というわけで、これから買おうと考えている人向けに、プレイした感触を書いていきます。

 鉄道線路を敷いていき、課題カードに書いてある路線を成立させれば点数になるというシンプルなシステムなのですが、悩ましくも面白いのが課題カードを後から引いてもいいこと。ある程度線路を敷いてから、「すでにある路線を引きますよーに!」と祈りながら課題カードを引く光景がそこかしこで見られます。

 とはいえ、運ゲーなのもそこまで。一度敷いた路線に他人が乗り入れることは不可能なため、短時間でローカル線を抑えて都市間を迂回路で繋ぐか、逆に長い路線を敷いた方が良いのかはプレイヤー間の駆け引き。どの都市、どの路線を狙っているのかを集めているカードの色で見分ける必要があります。

 と、ここまでは基本セットでも同じ。この日本拡張で特徴的なのは、新幹線があること!

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新幹線だけ色分けがされているミニチュア。

 新幹線は「都市間の接続をチェックするとき誰でも自分の路線として使っていい」という夢の路線。新幹線を敷くと、もちろん他人に利することになってしまうのですが、通常の得点とは別に「新幹線貢献ポイント」に相当する別枠の点数があり、しかも、それは順位点。なんと貢献度が下位だと総合点数がマイナスになるのです! 在来線と新幹線の作成バランスを他のプレイヤーの動きに応じて変えなければいけません。これが実に基本システムと違う面白さを生み出しています。

 さらに基本システムと異なるのは、ゲーム終了の早さ。かなり短期間であっという間にゲームが終了します。基本となるのんびり好きな路線を敷く感覚はどこへやら、この日本拡張はガチなゲーマー向けゲームとなっております。

 そんなわけでこの『チケット・トゥ・ライド拡張:日本マップ』はかなりおすすめです。なお、こっそりイタリア拡張も裏面にあるのですが、未プレイ。パッケージでもおまけ扱いなのがイタリアの関係者を悲しませたと聞いております。