ライトノベルを批評するには

 前回の日記への反響として「多くの人によるネットへの感想、プロによる批評、文学賞やランキングがないと小説は売れない」というものがありました。意見としてうなずくほかなく、だからこそコミュニティを築くことは大事だと思うところがあります。ですが、ライトノベルと呼ばれる作品において、文学賞や批評が可能かどうか? となると少し考えてしまうことになります。

 というのも、ライトノベルはそのようなものを拒否してきたという過去があります。実例はウェイバックマシンでは参照できるはずですが、“ライトノベル”という単語が盛り上がった初期の頃、ファン有志によるライトノベル特集サイトが作られました。期間限定の祭りではありましたが、有名作家にコラム執筆を依頼などしていました。ですが、このムーブメントを多くの作家は歓迎しませんでした。過去発言を集成するのは難しいし、公での発言は少なかったかもしれませんが、「このままでは特定の者が権力を握る図式になってしまう」という意見が目立っていたことを記憶しています。「売り上げしか評価軸がなくなるがいいのか?」という問いには「良い」という回答すらあったと思います。

 批評、文学賞が権威、権力になってしまうのはごく自然な流れですので、文壇、論壇のようなものを形成してしまう文学のやり方を忌避したのは当然ですが、ファンジンが主導していくSFやミステリのスタイルも嫌われたことは注目すべき点だと思います。現在は『このライトノベルがすごい』等の活動も存在しますが、「特定のランキングは全体の傾向を示していない」という意見が多いのは、その特性も大きく働いていると思います。

 このことを問題点と受け取るか、単なる実態の指摘と受け取るかは、人それぞれかと思いますし、私の観察が間違っているという意見もあるでしょうが、現状としてライトノベルの作家、並びに読者コミュニティが一般的な意味での政治力を持つほどの団結力を持っていないことだけは確かでしょう。

 作家においては、いわゆる業界団体はありません。現在、団体に参加したいライトノベル作家は、一般小説の協会でなければ、脚本家など他ジャンルの協会に所属することになっています。

 読者においてもライトノベルの変化、ソノラマ、コバルトからスニーカーの時代、富士見ファンタジア、電撃、MFの時代、さらに変化してなろう小説、ライト文芸、最近では投稿サイトにある書籍化されていない作品、ちょっとあげただけでも、このようなカラーの違う作品たちがライトノベルと呼ばれてきました。

 もちろん、ライトノベルとは何か? を語るために、ライトノベルを定義しようとする研究は過去、文芸評論家によって行われています。ですが、その中で定義されるライトノベルの要件を次代のライトノベルが拒否するという事態が起きていることは、先にあげたライトノベル中核レーベルの変化を観察すれば理解できます。マンガ的イラストが使われているという軸も、マンガ的想像力で書かれているという軸も、対象が中高生であるという軸ですら、もはやライトノベルの多数派ではないのです。

 その名を冠した作家団体がなく、小説である以外に作品特性はつかめず、レーベルも突如出現したり消えたりする。これらを統合する文学賞や、専門の批評家が、長期間存続し、一定の利益をあげることが果たして可能なのでしょうか? 私には難しく思えます。

 文芸評論も、ファンジンも当然ですが、作品の善し悪しを判断します。ですが、個々の好き嫌いはともかく、文学賞、あるいは売り上げに影響するような大勢の評価となってしまうと“評価理由”が必要です。ただの感想でなく「その小説が業界と社会にどれだけ貢献したのか」という意味を持つことになるということです。文学であれば“文壇”、他の芸術分野でも“何々壇”と呼称される権威システムを所持していることからも分かる通り、売り上げ以外の評価を与える感想、批評は政治化していきます。この意味での“政治”をライトノベルは拒否してきました。

 もしかしたら、ライトノベルの定義とは、批評の拒否にあるのかもしれない。そんなことすら考えてしまいます。

 もちろん、この私の“ライトノベル論”も、ある種の“政治”です。ですが、単に個人の感想でもあり、もちろんそのように消化されるべきでしょう。それでもライトノベルにおける“批評”について考えるとき、確かにこの壁にぶつかるような気がしてなりません。