オウムが犯罪行為をしていたことが明白となってから、当然ながら「オウムを笑う」姿勢は表向きはなくなりました。もちろん疑惑の段階ではまだテレビに出続けていたことと、「危険なものとして笑う」姿勢は私の知る限りでかえって強くなったことは併記しておきます。

 
 一方「オウムを生真面目な宗教として社会に位置づける」視座は当然なくなりましたが、「なぜ騙されたのか分析する」論へと転化したように思います。現在でもオウムを持ち上げた文化人が総括していないと話題になりますが、そのような糾弾や、指摘された側からの言い訳も含まれているのでしょう。宗教論や社会論、さらには洗脳についてという形でずっと語られ続けることになります。もっとも分析される側からすれば嘲笑されているのと同じである、ということは言えるかもしれません。
 
 カルト宗教に耽溺する人への評価は、もちろんそれまでも芳しいものではなかったでしょうが、この事件を機に決定的に……は、ならなかったのではないか、と思います。「危険なものとして笑う」「なぜ騙されたのか分析する」という態度は先日書いたようにフィクションへ耽溺する人への反応として普遍的なものだから、というのが私見です。人はずっとその態度でフィクションへの防衛を行ってきた、と私は考えます。
 
 「社会に溶け込んでおらず」「耽溺者に特別感を与える」フィクションが防衛反応を起こすものである……もう少し定義は増やせますが、そのような防衛反応を起こさせるフィクションの要素をこれとしましょう。嘲笑の対象になりやすい『カルト的セミナー』や『政治陰謀論』『過激思想』を含みたいがゆえの恣意的な定義です(当然ながらすっぱりと分類できるものではなく、防衛反応を起こさせる要素の濃度の違いがあるだけで、すべてのフィクションが含まれていることになります)。
 
 我々は、嘲笑される側でもあり、防衛のために嘲笑する側でもあります。それらが行われる回数を少なくすればストレスは減るでしょうが、その回数がゼロなのは全体主義国家の幸福な構成員以外にはありえません。
 
 そんな事態を避けつつ、さらにフィクション全体を肯定したい……。「楽してスゴイもんになりたい!」「密かな特別感が欲しい!」という欲望を肯定するフィクションを愛する私のような立場からすると、そこが目指すべきものである、と言えます。
 
 しかし、そのためには「嘲笑される回数も嘲笑する回数も増やすしかない」と次善策のようなことを提唱するしかできません。たくさんのフィクションに耽溺し、それらの手口を知っていく。そして「社会に溶け込む」というフィクションを何パターンも知り、それをある程度信じる……。
 
 どうやら直接の争いが終わっても、困難はいつまでもつきまとうようです。