情報勾配を利用したビジネスモデルと創作の関係

情報勾配を利用して稼ぐビジネスモデルというのがあります。人々の間にどうしても存在してしまう情報リテラシーの差を悪用し、情報が足りない人を騙して金を吸い上げるモデルのことです。具体的には情報商材セミナー商法、水素水などの疑似科学商品、やや広く取れば新興宗教も含まれるでしょう。いずれもその分野において一定以上の情報リテラシーのある人であれば買わない商品であり、売る側も騙すことが前提になっている商売ですね。

ここまで読んだ時点で何のことが書いてあるかわからない方は、すでにカモになっていますので、この先を読む意味はありません。それ以外の方には「イケダハヤトに感化され職を捨ててブロガーになる人に足りないのは、金融商品と顧客商売についての一般的な情報だ」という認識である、という前提でこれから話を進めるのだとご理解ください。洗脳とか同調圧力とかについてはここでは考慮しません(ツアー商法や押し売りは情報勾配を利用していないと考えます)。ともあれ、ここで書きたいのは、「情報勾配を利用して稼ぐビジネスモデルを嫌いすぎるあまり、小説やその他の創作ができなくなる」という現象についてです。

創作を志したとき情報を集めるところからスタートする人は多いでしょう。ある程度人生経験を積んでから創作をしようと思ったときは、すでに多数の情報を知っているのも当然のことです。ここで言う“情報”とは、もちろん上記にあるように、情報勾配モデルに引っかからない程度の常識、という意味ですが、創作においてはそれだけではありません。「このアイデア、すでに多数あるんだよなぁ」と知ってしまうと、それを書きにくいというものは情報の弊害の代表的なものとして知られていますね。
しかし、それは情報の弊害であって、情報勾配を利用したくないという弊害ではありません。まず創作物における情報勾配がどういうものか例をあげていきましょう。小説でいえば、次のような読者の声に情報勾配を見いだせます。

「重厚な戦記物でありSFでもある本作はもはやライトノベルとは呼べない」

「小説は人間を描き人生について考えさせる教養でなければいけない」

これらを情報勾配だと理解できるかどうかで、またこの文章のハードルは上がっているわかですが、ともあれ、これらの主張を行う読者(あるいは読者ですらない)は、小説についての情報が少ないからこのように言っているわけです。

一方、作る側としては、そのような読者が存在することに気づいてしまったとき、次のような悩みを抱えてしまうことになります。

「そうかグロ描写したり戦争であっさり人が死んだりとにかく悩んだりする話にすれば小説の格が上がったように思われるならそうすればいいんだ……だが、それでは情報が足りない人を騙しているだけじゃないか!」

この悩みは、美少女キャラの表紙で売りたいとか、タイトルで騙したいとか、そのようなケースとは別種のそれのように思えます(少なくとも自分には)。そして、売れ線を書いて読者に寄り添うべきか、作り手の信念と小説の芸術性を貫くべきか、という問いとも違うと感じます。

小説も、漫画も、映像作品も、物品としての価値は存在しません。それらは情報商材となんら違うところはないわけです。面白さだけをその価値としているのに、情報勾配の要素がそこに入ってしまったら……。

小説を例にすると角が立つので現代アートでいえば「“紛争地域で使用済みとなった銃器を溶接して作ったオブジェ”を自作として展示することを恥と感じるかどうか」が問題の中核であり、それを恥と思う感情が過剰になり過ぎて創作ができなくなっている現象もあるのではないか? 例をあげると単純ながら、根深い問題かもしれません。
これらの感覚を読者の側から見たものが、盗作疑惑や文学論争、トレス騒動や作画崩壊とされるそれらなのでしょう。

これからも情報勾配が存在し続けることは間違いありません。個々人でそれを乗り越えなければならないし、そのためには開き直るか、技術を磨く以外に方法はないのですが、今後、この問題についてさらに考えていく必要はありそうです。