ふたたび日本のQアノンについて(前編)

 以前、日本のQアノンとして『QArmyJapanFlynn』を紹介しました。あれから一年以上過ぎ、その後の状況も変化しましたので、少し触れてみたいと思います。ただ個人的な意見も多々入り込んでしまうでしょうし、Qアノンについては他のウォッチャーや研究者の方々も出てきていますので、陰謀論については多方面から情報収集されることをおすすめします。微力ながら研究者の方に協力できればと思い、クラスタ化する際に参考になりそうなワードも記しておきます。

 記事執筆の大きな動機は、Qアノンが日本における陰謀論の中核として居座る可能性が出てきたこと、そして当該HPで発見した“目覚めた”方の文章が皮肉抜きで“名文”だったためです。それが見事であればあるほど、非常に典型的な陰謀論への入り込み方を示しており、「なぜ人は陰謀論に染まってしまうのか?」そして「そうならないためにはどうしたらいいのか?」という問いにひとつの答えを出すものではないかと思えたからです。

 前段として反ワクチンとして一般化してしまった陰謀論について。そしてQアノンが日本陰謀論の中核になり得る可能性にについてを書いていきます。投稿は二回に分けて行うことになります。

 

その前に『神真都Q』のこと

 昨今の日本におけるQアノンの活動といえば『神真都Q』です。反ワクチンにおける過激な活動とインフルエンサーへの集金の組織化が話題となり、そのエスカレートが現在進行系であることなどから批判、分析の記事も多く出ています。雨宮純様のnoteが参考になるまとめですので、そちらをご覧になると良いと思います。

note.com

 

『神真都Q』はQじゃない?

 すると日本のQは『神真都Q』に統一されたのか、と思ってしまいそうになりますが、『QArmyJapanFlynn』(略称QAJF)はまだ活動を行っていました。該当HPはこちらになります。

qajf.github.io

 ここで2022/1/3の記事として上がっているのが「“Q”という文字を表記したデモ活動を行っている団体は『QAJF』とは無関係」という主張です。このことが『神真都Q』と『QAJF』との対立を示しているわけではありませんが、『神真都Q』の中心人物がQアノンの思想をそれほどしっかりとは取り込んでいないことや、宗教団体のように集金、コミューンを作ろうとしていることなどから「『神真都Q』はQアノンの異端カルトである」と位置づけてよいでしょう。

 

右派論壇は中心ではなくなった

 一方、かつて日本のQアノンたちの中心であった右派のデモはどうなったかを見ていきましょう。その主催者たちは統一した見解の下で団結することはできなかったようです。中心となっていたのは以前の記事で紹介した右派論壇の人々ですが、主催の大規模なデモを行った様子はありません。Qアノンに共感する人々の興味が反ワクチンに移ってしまったこともあるのでしょう。

 それでも馬渕睦夫は昨今、注目された一人です。元駐ウクライナ大使であったという経歴が信憑性を持っているため、ウクライナ侵攻についての彼の見解を述べたYouTube陰謀論者に多く引用されています。

 馬渕睦夫の動画は、現状ではロシアのプロパガンダを肯定し、そのまま拡散するものになっています。もはや様々な意味で彼の危険度は高く、新たな信奉者を増やしている(それはそれで問題である)のですが、彼が中心になって運動が起こっている様子はありません。

 というのも右派論壇でもロシアのウクライナ侵攻によって意見が分かれることになってしまったからです。実に頭の痛いことですが、現在のQアノンの主流見解は「プーチンが光側(スピリチュアル的に正義の意)であり、ウクライナ侵攻は闇のDS(ディープステート)との戦い」というものです。結果、反中国共産党系の右派論壇が過去の自らの発言を裏切るかどうかという判断に迫られたことが見て取れます。

 

中心が複数になったQアノン系陰謀論

 観測する限り、Qアノンの名を掲げた集団は多くありません。地域の知り合いの小集団やネット上でのクラスタ陰謀論の主な担い手です。そのためQアノン系陰謀論であると知らずに信じている人もいるようです。元々が疑似科学陰謀論であったのが、Qアノン系を採用して合流、という様子も見られます。中核に置かれている話題はざっと下記に分かれるようです。

・DS実在論

 「隠れた巨大政府が世界を支配しており、それに抵抗しなくてはならない」という主張です。Qアノンの基本思想であり、トランプが左派敵視したため日本の右派と主張が合致したこと、過激化するポリコレへの反発、などが大きく、日本でも依然として主流です。最近では「ウクライナ政府はネオナチ」など積極的にロシアを善の側であると発信しています。一般に知られている以外では、ホワイトハット、カバール、売電(バイデンのこと)などの用語でクラスタリングできます。

・反ワクチン

 元々は疑似科学代替医療関係の人々が多く採用している陰謀論です。全人類がワクチンを射つべきという風潮が世界支配を連想させたこと、構成集団が疑似科学系とかぶっていたことなどがあり、DS実在論の人々はほとんどが反ワクチンです。一方で自然派と称する化学調味料、食品保存料への忌避感が強い層の反ワクチンはDS実在論とは限りません。しかし、自然派との合流で草の根ネットワークが張り巡らされてしまったこと、具体的に行動が起こせることなどから、Qアノン系とされる人々の興味の中心はこちらに移っており、ノーマスクデモやワクチン接種会場襲撃、反ワクチンビラ配布など小規模なテロが各地で勃発してしまいました。イベルメクチン、空間除菌、などは当然として、なんと、自然塩、でも重なりが大きそうです。いかにもありそうなEM菌とは少ないのが面白いところです。

・スピリチュアルと雑多なオカルト

 スピリチュアルは二元論的な代替宗教として以前から存在していましたので、やはりDS実在論とは一部のみが重なっているに過ぎません。トランプ、プーチン、バイデンなど政治家や要人を光と闇に分類していくのがDS実在論におけるスピリチュアルです。驚くことに、要人の名前+光or闇、でクラスタリングできます。

 スピリチュアルはDS実在論と一部のみが重なるだけなのですが、Qアノン陰謀論の中でも影響力のある思想となっています。DS実在論の中心も「目覚める」という用語を多用していますし、善悪できっちり陣営を分けてしまうことも特徴です。思考のベースが非常にスピリチュアル的なのです。

 ただし表面に出てくる陰謀論は「宇宙人によるDS支配」や「過去の超文明」、「超能力の肯定」、「セレブが人間の血を飲んでいる」などであるため、DS陰謀論の中でも統一見解とはなっていません。それでも内部で議論があるわけではないのですが。

 ゴム人間 アドレノクロム、レプティリアン、フラットアース、マッドフラッド、タルタリア帝国、などでクラスタリングできますが、用語の組み合わせによってはまったく重なっていないパターンもあり、個々人が勝手にやっている側面が伺えます。

 

本家Qアノンに立ち戻る

 このように日本では拡散してしまったQアノンの活動ですが、本家Qアノンの動きを見てみましょう。

www.huffingtonpost.jp

 このように正体が明らかになったと発表されていますが、これはまったくダメージにならなかったようです。そもそもごく初期から噂されていた二人ですので、なにを改めて、というところでしょう。現在の中核投稿者が誰であるのか? それは組織だっているのか? が注目点であるとは思いますが、おそらく「誰もが勝手に中心になれる」のであろうと推測できます。例えば、昨年の5月に米国の退役軍人会から反民主党政権の公開書簡が出され、これがQアノンの主張する選挙違反疑惑に基づいたものでした。政治的に信憑性があると目される立場の人々が公然と陰謀論を語っているわけです。日本では馬渕睦夫が自身の世界観を補強するためにこれを引用しており、説に信憑性を与えてしまいました。米国には日本の元ウクライナ大使が肯定したことのみが伝播していることでしょう。作家としてはシェアード・ワールドの構築にも似ていると考えさせられます。

 

本家に近い『QArmyJapanFlynn』

 本家Qアノンの人々は、米国の右派が主に使用しているSNSである『Gab(ギャブ)https://gab.com/』で活動しています。ネオナチ、白人至上主義、オルタナ右翼など他のSNSを追い出されるような主張の持ち主の安息の地とされています。トランプ本人が開設したSNSは2月末に使用開始ですので、そちらへの移行はこれからであろうと思われます。

 『Gab』は、過去にはなんと未成年ポルノ等、ダークウェブでしか流通しない画像や話題が許されていたため、日本でも一部好事家たちが登録していたのですが、段々とそちらの規制は強化されてしまい、今では日本人はほぼ活動していません。

 しかし『QArmyJapanFlynn』のメンバーは『Gab』に日本語アカウントを持っています。そして、現地での投稿を翻訳して紹介しているのです。

 

『QArmyJapanFlynn』の活動

 そのため『QAJF』の主張は、米国Qアノンのそれの直輸入となっています。その主張は前述のもの以上でありません。

 (引用)QAJFは、社会的に強い立場の人の意見だけがまかり通るような、偏った世の中を変えたいと思っている一般市民の集まりにすぎず、Wikipedia に書かれているような「Qアノン」ではありません。(引用ここまで)

 という自己像を持っていますが、ここで紹介した陰謀論のすべてを下記ブログで扱っています。

qajf.officialblog.jp

 このように『QAJF』はすべて網羅したQアノンなのですが、それだけでなく、積極的に仲間を増やそうとしていることは特徴のひとつでしょう。ポスティングやYouTubeなどでの広報を行っており、「自分で考えよう」「有名人や地位の高い人は悪」「マスコミは嘘」などが思想的中心であるEriというハンドルネームで語られています。

 次回で触れますが、『QAJF』の思想は、権力者への憎悪がベースとなっていることがそのホームページからよくわかります。「自分で考える」ことを推奨しているようでいて、主流の意見に反対することが正しい知性であると考えており、その点で非常に団結しやすいことがうかがえます。

 

これからのQアノン

 つまり「すべての陰謀論を肯定する」存在がQアノンであり『QAJF』である、といってよいでしょう。結果的に成立してしまったこの参加者に優しく平等なシステムは非常に強固なつながりを弱者にもたらすと思われます。

 『神真都Q』は危険なカルトになりつつあるものの、反ワクチンで集まったスピリチュアルや自然派の構成員たちが離れていくことも容易に想像できます。集金やコミューン作りに欲を出してしまった以上、ヒエラルキーの構築に伴う内部抗争は避けられないからです。

 米国Qアノンコミュニティと『QAJF』は長く存続し、各種陰謀論の中核になる可能性が高い。私はそう予想します。もちろん外れるに越したことはない予想なのですが。

 

 次回は『QAJF』の“目覚めた”方の文章を引用し、その思想の魅力と恐怖について書いていこうと思います。

戦争と人文知

 ロシアによるウクライナ侵攻はますます激化し、世界の反応もそれに従って苛烈なものになってきています。平和を願うのは当然として、(当事者も世界も)最悪の結果を避けるために戦うのもやむなし、というのが現状でしょう。たとえ戦争が終わっても、その処理は時間のかかる困難なものになることは間違いありません。

 気になるのは、世界にあまた起こった紛争、戦争のうち、ここまで影響力のあった戦争は二次大戦後ではなかったということです。多くの人が衝撃を受けていることが観測できますし、私自身も大きな精神的ショックを受けています。

 この戦争は他の多くの紛争とどこが違うのでしょうか? 大国が大国に侵略したことだけではないでしょう。それについて考えた結果、私見ながら興味深い結論に至りましたので、ここに記しておくことにします。

 

世界が無視するかしないか

 規模で言えばフォークランド紛争はかなりのものでした。しかし二国間の領土紛争であったこと、戦地が世界にとって馴染みのない島であったこと、アルゼンチンにおける軍事政権が倒されたことなどが重なり、世界が苛烈な反応をするものではありませんでした。

 中東、アフリカにおける紛争や悲劇も、慣れっこになっているということや、独裁者の存在など不安定な地域であることなどにより、反戦や支援の運動が盛り上がるということはありません。

 最近では、特にシリアとウクライナは比較されます。「欧米での騒ぎ方が違うのは差別意識が働いている」という指摘もあり、それもかなりの面で正しいことも見て取れます。

 「いわゆる欧米に被害が及ばなければ“世界”が動いたことにはならない」のは悲しいながら事実でしょう。そこが他の紛争との最大の違いであった、と見ることができます。

 となれば「“世界”とは欧米のことである」という皮肉めいた見方をしてしまうことや、欧米の傲慢さに立腹する人がいるのも理解できます。が、それだけが我々が受けている衝撃の理由なのでしょうか? そう考えたとき、見えてくるのはロシア側の論理を我々が受け入れていないということでした。

 

世界観が大規模な衝突を起こしている

 ロシアは開戦時、NATO=欧米への不審を演説において語っています。

www3.nhk.or.jp

 ならば「“世界”とは欧米のものではない」という意見が引き起こした戦争であるという見方をすることになります。

 ウクライナNATO加盟希望へと繋がる流れはここでは精査しないとして、ロシアが欧米型の価値観に挑戦したことは特筆すべきであり、衝撃的だったと受け取るべきでしょう。領土問題に武力を使ったことを踏まえ、日本も危ないという危機感だけが我々を揺さぶっているわけではありません。大きな価値観の違いが衝突を起こしたことを自覚させられたからでしょう。自由主義世界と専制主義世界がついに衝突したというショックです。

 

自由主義は情報の強さを軸にしている

 無論、我々多くの日本人は欧米の常識で世界を見ています。それ以外の判断はちょっとできないと言ってもいい。独裁や宗教原理主義で国が運営され、情報があふれるという意味での豊かさを享受できない世界の人々の幸福というものを想像はできても、もはやその状態になろうとは微塵も思わない。物質的に豊かでないことを拒否するのはもちろん、情報を豊かにしようという欲望にも抗えない。それが醜いほどの貪欲さを自覚させられ、情報強者が傲慢になっていくという欠点があったとしても、情報の豊かさは物質の豊かさと同等かそれ以上に人間を突き動かしているのです。

 民主主義、自由主義社会は、功利主義的に見ても、情報を最大化する方向で社会を運営していることは間違いありません。人権思想は奴隷生活を是としません。人間個人は、たとえ独自の見解を発表せずとも、その人生においてなんらかの情報発信の可能性を持たなくてはいけないということです。

 日本はそういう国になっているのです。

 

情報力は正義ではない

 しかし情報の豊かさは正義ではありません。情報それ自体を純粋な力として考えるべきでしょう。武力が正義でないように、情報も濫用すると被害を及ぼします。小さいところでは人間関係に被害を及ぼす根も葉もない噂、少し大きくなればネット炎上、さらに大きくなればスキャンダルによる政治家の失脚など想像することができます。これらは情報の正確さよりも面白さ、本当らしさが優先されていることを示しています。正しいことをしているのに叩かれた人、あるいはまったく無関係なのに被害にあってしまった人などいくらでも思い当たります。

 ロシア側の主張に理がないとしても、感情的に情報という暴力に反発したのだ、という見方は可能です。多様ではあるものの人間のありのままの姿を見せつけてくる文化は、一面では醜悪でもあり、暴力的でもあります。

 

我々は正しい側に立っているのか?

 それがそのような世界観のぶつかり合いだったとして、我々は正しい側に立っているのでしょうか? 一般に共感力の高い人ほど、上記のようなことを知れば「我々が正しい側であるということを疑おう」、「情報も暴力なのだから多数派は“力の支配”を行っている」、「少数派であるロシアにも正しさはある」と考えてしまうようです。

 とはいえ「情報が面白くさえあれば無理が通ってしまうというならば、“力の支配”が大手を振っていることになりはしないか?」という問いは本質的なものでしょう。「いわゆる“世界”なんて欧米のことじゃん」という反語に戻ることになるわけです。

 自由主義=情報の力。そこについてひとりひとりが考える必要が出てきたのでしょう。

 

情報のぶつかり合いはネット炎上も同じ

 情報の力。大上段に構えましたが、すでに我々日本の個々人は体験としてそのことを知っていることに気付かされます。情報の濫用について述べた際「噂話から政治家の失脚まで」と語りました。そうです、我々はネットの炎上で、世界観の衝突について知っているのです。反ワクチンから一部フェミニスト、Qアノンに至るまで、述べてきたような世界観の衝突であると見て取れます。少数派が情報弱者であることと、情報の制限や規制を積極的に行っていることも共通項です。

 ロシアの戦争でさえ「大小さまざまな炎上にさらされたロシアが爆発した」ととらえられます。「さすがに大国家なのだからそのようなことはないだろう」と思うならば、上のリンクに示したものと、それ以前に行われた演説を読むべきです(長いので大変ですが)。世界観の衝突が実感でき、歴史的事実について独りよがりな視点を持っていることが理解できます。

news.yahoo.co.jp

 

戦後に残る傷について考えよう

 我々を不安にさせるのは、多数派が間違っていた場合、そして自分が少数派になってしまった場合にどうすればよいのか? という抽象的な問いと、今後に見出すべき教訓、つまり荒廃したウクライナとロシアの人々が持つであろう世界観を我々の世界観と衝突させないようにする方法の困難さです。

 ウクライナの復讐の論理。新たなる建国の伝説による兵士や政治家の英雄化。

 ロシアのプライド失地回復のために発生する過激派。ロシアへの他国からの蔑視。

 すでに心配している人も多いこれらの問題が控えています。

 

内面で規範として働く仮想の“みんな”

 それらについて考えるため、炎上に立ち戻りましょう。

 炎上は多数が少数の意見に反対した際に起こりやすいです。それが起こってしまったときどうするか? 起こさないためにはどうするか? それについて見ていきます。

 誰でも思いつくのは、自ら情報を発信して、その扱いと性質を事前に知っておくことです。受ける、バズる、そういう情報がどんなものであるか馴染んでおく。自らが発信せずとも、バズったものを目にして、それらの共通項を考えておく。「みんなこういう情報が好きなんだな」と予期しておくわけです。そうすると、自然と“仮想のみんな”が精神の中に立ち上がってきます。

 この個々人の中にある“仮想のみんな”は、情報を見たとき「これは面白いなぁ」「これは炎上するぞ!」「これは叩かれるべき意見だなぁ」などと判断してくれます。自分の正直な意見であっても「みんなはこれを叩くだろう」と予期するとき、その“仮想のみんな”という人格が働いていることになります。

 この概念は、ルソーが各種“○○意志”と呼び、記号論者が追求した“読者”のような漠然とした理解しにくい存在ではありますが、個々人はそのようにして自分の意見と社会とを繋げているわけです。

 この規範を持っておくことは炎上の可能性を引き下げてくれます。とはいえ、自分の意見が“仮想のみんな”と異なるとき、そして“仮想のみんな”同士がぶつかるときこそが問題になるのは前述の通りです。

 

“仮想のみんな”の強さが情報の力

 “仮想のみんな”が一致している人数が何人か? それによって情報の強さが計れることは理解できると思います。そして“仮想のみんな”が異なる集団同士のぶつかり合いではその数の比べ合いになる……それも自然なことです。ロシアにおいては「統一ロシア帝国の復活」という物語が受ける。欧州においては「統一ロシア帝国とか百年じゃ利かないくらい古い思想だ」という物語が受ける。そのぶつかり合いにおいて、ロシア側は劣勢であることに自覚的であったがために、軍事力で覆す可能性に賭けた。そういう姿が見えてきます。

 

人間は仮想の意見を複数用意できる

 ここで、たとえ自分の意見が一般的でないものであったとしても、多数派の“仮想のみんな”を想起することはさほど難しくないことを思い出す必要があります。「みんなはこれを叩くだろうなぁ」という想像です。ロシアの反体制派も、欧州の過激派も、自分がどんな“仮想のみんな”を面白くないと思っているかは正確に知っているのです。だとすれば、逆に、たとえ実際にはそうしないとしても、自分が賛同していない層に受けるような言説を想起することはとても簡単であることも理解できるでしょう。

 たとえ反ワクチンの陰謀論のような極端なものであれ、情報の発信と観察に慣れていれば、彼らの言説をコピーし、新たな陰謀論を生み出すことなど造作も有りません。我々は他人の意見、つまり誰かの“仮想のみんな”に受け入れられる意見を用意できるのです。

 

“仮想のみんな”は変容する

 個人の意見と“仮想のみんな”の意見が一致していたと実感できたとき、人間は大きな幸福を感じます。自然な気持ちの吐露がバズった、書いた小説が売れた、そのような瞬間です。

 ですが、自然な意見が叩かれたとき、同様に絶望も深くなります。かといって“仮想のみんな”に自分の意見を合わせてしまうと屈服したような気分になります。敵対する“仮想のみんな”の力が強いほど恐怖と孤独を感じますし、少数派の“仮想のみんな”を探してそちらに同化しようとしてしまいます。

 ここで自由主義社会のテーゼに立ち戻りましょう。それは情報の極大化です。多様な意見を認めることや、少数の意見を消滅させないことが情報の極大化に繋がります。情報は資本と違い独占することが極大化を妨げますので、その伝達量を尊ぶことになります。変化しない情報は伝達量を低下させますので、素早い変化が重要になります。

 とすれば“仮想のみんな”は、それを共有する仲間を増やすことを重視しつつも、それ自身が変化していくことに、より重きをおいていることになります!

 自分の意見は変えられないとしても、自分がいちばん大事にしている“仮想のみんな”を変えていくことは可能です。そして、そうでなければ、少数派で変化の少ない“仮想のみんな”を相手にすることになります。それこそが陰謀論専制主義に繋がる考え方なのですから、先にあげた疑問「多数派が正義とは限らない」と「少数派になってしまったときどうすればいいか?」の答えは「“仮想のみんな”を固定化しないことだ。現在の多数派も正しく変容し得るし、少数派からも離れられる」となるでしょう。それは自分の意見を曲げることより難しくはないはずです。

 

人文知の強さ

 今回の戦争において“ナラティブ”という単語がクローズアップされたり、人文知の重要性が語られるようになったりしていますが、それは多くの人に期待されているように「情報戦の諸相」や「人間同士の対話の可能性」を示してくれるものではないようです。

 意見が異なる者同士がぶつかったとき、マクロな局面では情報量の多い意見が勝利する。であれば、人間が伝えうる情報とはどんなもので、それをどう取り扱えば極大化できるか? それについて考えるのが人文分野で、実践するのが物語ということになります。

 戦争を止めることはできないかもしれません。ネット炎上すら止めることは難しいでしょう。意見が異なる場合、対話で解決できないことは多くあります。それでも、物語の力や、人文知を信じる……それは美しい言葉のようでいて、圧倒的に情報があふれる未来を築き上げることによって、平和という言葉では表現できない奇妙な変容し続ける統一体を作り上げる意志の表明なのかもしれません。

 

結び

 もちろん“物語”がきちんと効果を発揮していることも理解しています。SNSで発信されていた幸福な街の様子。平時に言語の壁を超えて交流した人々。そんな積み重ねがあったことがこの戦争の注目度に直結しています。さらに自国のコンテンツを通じて文化に親しみを持ってもらうことが力になる。日本もさらにコンテンツを発信していかなくてはならないことも自明です。それがわかっているのなら、人文知の力を語るとき、このように迂遠なことを書く必要はない。そうも思います。

 とはいえ、圧倒的な暴力を目の前にしたとき、その根源について考えることで平静を保てることもあるのではないか、とこれを書いていて思いました。自分の“仮想のみんな”が多少なりとみなさんのそれと一致していると良いのですが。

多数派に旗印を持つ必要なし

 日本時間で言えば本日の昼、ウクライナにロシアが侵攻(この言葉の選び方にもいろいろあるのですが)しました。先日の記述ではある程度濁していましたが、明確にプロパガンダに属する情報も出てくることでしょう。

 

本物の陰謀がより身近に

 この日本にあっても、そしてこのなんでもない日記においても、暴力を背景にして強いられた論陣、背景を知らずに影響を受けた論者たちの言論が展開されていないとは限りません。陰謀がまさに身近にある世界がやってきたわけです。

 

火遊びは厳禁

 我々ができることはおかしな論をきっちり見分けられるようにしておくこと、暴力に訴える者に口実を与えぬための言論を展開していくことが重要になってくるでしょう。正論であっても明確に反対論や否定論を打ち立てることが危険であるばかりか、暴力を振るう口実に繋がってしまいます。スラングで言えば“京都仕草”とでもなるでしょうが、陰謀に立ち向かうためには必要になるかと思います。

 

プラットフォームを残す

 言論を展開するためのネット空間の多くは企業によって運営されています。その削除や凍結の基準は明確ですので、それをはみ出さずにプロパガンダに抵抗していくために、無視して日常を送っていくことも日本においては重要でしょう。プラットフォームはできるだけ多い方がいいのですから。

 

内心を明確に吐露するなかれ

 単純化して言うなら見出しの通りとなります。陰謀論を楽しみながら叩いていける世界がまた来るといいですね。

陰謀論で世界を見る

 年が明けて一ヶ月以上が経過し、昨年末に行った予想がオープンレター問題として現実になったばかりか現状ではすでに飽きられている、という時代の早さに戸惑う日々を送っています。

 世界を見てみればウクライナにロシアが攻め込むかどうかという状況になっており、我が国からは遠い問題であるものの、陰謀論ウォッチャーとしては現在進行系の本物の陰謀を目にすることに後ろめたい興奮を覚えてしまっています。

 

ロシアからの情報をそのまま流す人々

sakisiru.jp

 引用した記事にある通り、ある種の人々がロシア側に立つ論陣を日本のマスコミにおいて張っており、彼らがクレムリンからの情報をそのまま流していることが伺えます。引用記事にある通りの事実誤認により偏向情報と理解できますので、一部の新聞や有識者は、いわばミトロヒン文書なしで見分けることのできるエージェントであると断言できます。我々は現在進行系の陰謀をはっきりと目撃できているわけです。

 

プーチン偽史を信じているか?

 ここで話はロシアからの陰謀に含まれる陰謀論のことに移ります。プーチンは政策を論文という形で事前に発表することで知られています。ウクライナ侵攻の準備として“ウクライナ人とロシア人は同一民族”という趣旨の論文を書いているのです。

 これは明確に偽史に属する論です。いわば陰謀論

 ただここで疑問を抱く人も多いことでしょう。「プーチンは本当にそれを信じているのか?」と。嘘を無知な国民に信じ込ませようとしているのか、自分でも信じてしまっているのか。それによってウクライナへの固執は違った意味を持ってきますし、各国首脳によるプーチンへの説得困難度も変化するはずです。

 もちろん常識的に考えれば信じていないはずなのですが、逆の立場で考えてみると、少し面白い可能性が見えてきます。

 

陰謀論のジレンマ

 互いに心から陰謀論を信じているか疑わしい場合を考えてみましょう。

 今回のケースで言えば、ロシアが自由主義陣営を「自由主義はお題目でありリアリズムのパワーゲームをしている」ように見ている可能性です。

 ただその可能性が成り立つ場合、ロシアサイドが自由主義以外の価値を信奉していることも正しいことになってしまいます! これは困りました。我々はある程度自由主義はお題目ではないことを知っていますが、互いに常識的な判断のもとに議論を行うと、リアリズムに基づくパワーゲームのみが問題になり、永遠に陰謀論は議題に登らないことになります。

 再度言えば、ロシア側が偽史を本当に信じている可能性はかなり低いのですが、同様に自由主義も人権もそう思われている可能性があるということです。

 

リアリズムによる陰謀論加担

 ロシアの主張をそのまま流す人々のほとんどは「ロシアは拡大主義をとっているだけで実利のために動いている」と信じているでしょう。自分の関係していることは陰謀であって、陰謀論ではない、と信じたいのは当然です。リアリズムとして世界をとらえることは、陰謀論に加担してしまっている可能性からの逃亡でもあるのです。

 いまやナチスを比喩に使うことこそ野蛮であるわけですが、そのナチスにしてからが当時でさえ「まともな政権がユダヤ陰謀論を根拠に行動に出るはずがない」と思われていたのです。「プーチンウクライナ人とロシア人が同一民族と唱える」こと「習近平が五輪晩餐会において皇帝しか用意しないようなテーブルについた」こと「トランプがQアノンのキャッチフレーズをSNSに書き込む」ことなどは、はたして「信者を騙すためのポーズ」なのでしょうか?

 日本国内において「総理が独裁政権を築こうとしている」と主張することこそ陰謀論ではありますが、互いにリアリズムのパワーゲームをしていると信じると状況を見誤るのかもしれません。

 

陰謀論世界観

 陰謀論を拡大して考えれば、それは世界観ということでもあります。どうあれ国家はある種の宗教によって求心力を持つ以外に存在のしようがなく、根底を考えてみれば非科学的な同一民族神話や、不合理な超存在への信仰を「まとまるための方便であっても」信じている。これは多くの陰謀論と同じ構造を持っているわけです。

 我々は何の陰謀によってまとまっているのか。個々人はどんな漠然とした陰謀論を信じているのか。これらはリアリズムを是とした際には議論できません。文芸の機能のひとつはその議論を行うためのものであるはずです。陰謀論を基本として世界を考えるのも面白いのではないでしょうか。

新年のご挨拶

 あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願いいたします。

 波乱の予感のある今年、皆で乗り切ってまいりましょう。

 個人的には紳士としての振る舞いを身につけることを遠大な目標として掲げたいと思っております(紳士の定義=紳士が絶対にしないことを紳士的に行える人物)。

来年の予想と炎上忌避の空気

今年の業界動向

 先の日記でも少しだけ書きましたが、昨今ではポリコレやフェミニズムを軸とした表現規制論が盛んになっています。パワハラの告発にも代表される権力勾配の暴力性についても周知されることとなってきました。それらがもたらすキャンセルカルチャーの是非も新鮮な話題です。

 少し先回りをして、炎上への強い忌避が生まれた年だった、とここではまとめてしまいましょう。

 砕けた言葉で表現すれば「パワハラするようなヤツはパージされて当然」なので「普段からジェントルでない人とは仕事をしたくない」し、「人種やジェンダーの平等には賛成だけどキャンセルカルチャーには同意できない」から「過激に平等運動している人と同じコミュニティにいると思われたくない」けれど「過激化した平等運動家を表立って嘲笑する人とも距離を置きたい」という気分、となるでしょうか。

 

来年は政治の季節?

 とはいえ炎上を含む論争であっても利害関係かからむ以上、なされないわけにはいきません。有名漫画家の立候補もあり、来年は政治の季節になるかもしれません。

 政治の季節で忘れてはいけないのは、のめり込むとその後の人生をすべて失う、ということです。炎上への忌避も大半の人がそれを知っているからに他なりません。過激化した運動家の主張や行動を見ているだけで、それが一般のコミュニティにいられない人であることはすぐにわかる、というのも理由でしょう。運動家はもはや陰謀論者と見分けがつきません。

 覚悟して政治闘争をしている人が最警戒されているのは当然として、政治分野について触れがちな人や、異性についての言及がおかしい人、他人の作品を批評しがちな人、はては単なる「イタイ人」さえも要注意としてマークされ、いざ炎上したならばパージできる空気がコミュニティ内に醸成されているのを感じます。

 

敬遠される人にならないために

 「イタイ人」にならないことを意識するのは難しいとしても、発言に気をつけなければいけない時代になったのは確実でしょう。政治や言論が我々にとってぐっと身近なものになってしまったからです。

 人格をネット上に公開している人はすべて「まだ売れていない芸能人」なのだ、という比喩がぴったりくるでしょうか。有名人が妙なことを書いて炎上すると“我々無名の一般人は別だが、あなたのような影響力がある人がやってはいけない”という論調が目立ちましたが、ハンドルネームが家族や会社に知られているなら、彼らからすれば“あなたのような影響力がある人”なのです。

 

知人が敬遠される人になる可能性は高い

 しかし、どれだけ気をつけていても、誰もが「イタイ人」になってしまう可能性は昨今、ぐっと増えてしまいました。「過激な政治闘争に走ってしまい関係が壊れた人」という大昔の革命戦士の逸話のようなことから、「アマチュアの活動にプロがエアリプで説教してしまう」という卑近なことまで、あなたや私にふりかかるかもしれない。

 家族や仕事仲間が炎上しそうな言動を繰り返しているときの空気感は、信頼していた人が宗教や陰謀論にはまってしまった不安と恐怖に似ています。一時の気の迷いや冗談ならいいのだけれど、このままそれが続くならば周囲から白眼視されることは確実。おかしなところを指摘して自分が普段とはズレていたと気づいてもらえれば良いけれど、多くの場合向こうが腹を立ててしまい溝が深まるばかり……。そんな嫌な気持ちです。

 

炎上忌避が行きすぎないと良いけれど

 やはり「炎上した人間をパージする空気」が不健全なのでしょう。誰もがそうなる可能性が高いのだから、関係性がギスギスするだけの風潮です。隣人が炎上しそうな言動を繰り返すようになってしまったときの説得テクニックは研究されるべきでしょうし、家族やコミュニティは言動で失敗した人間を上手に許す姿勢を持たなければならないのでしょう。一時の熱狂でおかしくなっていた人がすべてを失うことを繰り返してはいけないのですから。

 

それでも闘争はやってくる

 一時の熱狂でなくとも、必要に迫られて政治闘争をしなければならない未来になってしまう可能性が高い、というのも悩ましいですね。表現規制問題はエンタメ業界には死活問題で、理不尽な要求は突っぱねなければならない。その過程で闘争を担ってしまった人は味方から「パージ候補」と見なされてしまう。もちろん過激になってしまったらそれもやむなし、ということになりますので、戦う人もいろいろ自覚は必要になってくるはずです。

 では何を自覚したら良いのか?

 私は昔からいわゆるゼロ年代批評に端を発するエンタメ業界の批評界隈をファンとして眺めていました。そこで批評界隈に毒されたばかりに狭い閉鎖世界に行ってしまった人を何人も見てきました。批評界隈でのそのような失敗は、昨今の風潮を先取りしていたとも言えるでしょう。ですからそこから学んだ失敗の本質を示しておくことで、戦わない我々のために闘争してくれる人々への餞にしたいと思います。

  1.  批評家の多くが政治に意見することを闘争への参加だと認識していませんでした。反対者から攻撃されても気づいておらず、きまぐれな群衆が気分で叩いているだけという論陣を張りました。それを繰り返していけません。そして現在の表現規制議論への参加は明確に政治闘争なのです。
  2.  批評家は批評や分析が暴力であることに気づいていませんでした。作品の批評を行う際、ファンの内心を勝手に分析し、多くの場合「現実で叶えられなかった欲望の歪んだ発露である」としました。たとえ褒めるだけの作品批評であってもそれが作者当人への暴力になっているのだという認識を持たなくてはなりません。
  3.  批評家は大衆が賢いことを認めませんでした。大衆が叩いた作品を擁護する論陣を張る際、公然と「多くの日本人はこんなこともわからない」と言い切りました。そこまで直接的でなくとも批評家が新たな視点として述べたことはすでに多くの人が論じ終えていたことでした。他人が知っていることを改めて指摘することは他者の知性や経験を侮っている証拠です。大方の人がおかしいと思っている論者を晒し上げるのも同様です。
  4.  批評家はすべてに自らの納得を優先しました。批評対象を理解しようとすることを歩み寄りであると誤認しており、その理解すら自分の尺度で認識できることに対象を押し込めるものにすぎなかったのです。政敵の主張を理解しようとすることが自らの納得感を優先しているだけでないかは振り返ってみる必要があります。

来年は良い年だといいね

 そんな感じで今年の総括と来年への展望を締めくくりたいと思います。

 繰り返しますが、現時点で「政治論争にいっちょかみして敵陣営を誹謗している人」は、それが闘争だと自覚していないという意味で語源通りのボンクラ(賭場の流れが見えていない)ですし、「異性や性的なことに対する視線がおかしい人」や「体制側にまわってしまったことを自覚せず批判がパワハラになってしまう人」を擁護することはもはや無理です。身近な人や所属コミュニティにいられなくなるような行いは慎みたいです。

 来年は闘争が穏やかに決着し、炎上忌避の空気も和らぐと良いですね。

久々の近況と今年の総括

 日記の間が空いてしまいました。空白期間前半はコロナで外出していなかったため書くべきこともなく、後半はひたすらに小説を読み、書くことに集中しておりました。成果物について公開の予定がないのが残念ですが、修行と位置づけておりましたので今年は大きな成長ができたと言っても良いような気はしています。

 コロナの脅威が小康状態になってからは釣りに行きまくっており、これまた日記に書くことではないため、まごまごしているうちに今年を総括する時期に至ってしまったという具合です。

 仕事についても現時点で報告するようなことはなく、書きかけの小説をどうしたものか考えている程度です。来年にはご報告できることもあるかと思うので、そちらをお楽しみに。

 個人的には上記の通りの年だったのですが、小説、エンタメ業界を概観すれば、かなりの激動だったと思います。個々の事件をあげつらうことになるのを避けるために、はっきりとは示しませんが、映画業界におけるパワハラ、映画雑誌における不祥事とその対応のまずさ、サブカル楽家の過去記事の炎上、SF雑誌における内輪企画への批判とその応答、TIKTOKでの小説紹介への既存書評家による攻撃、等々。

 これらの事件は世代間の対立にも見えますが、つぶさに観察すれば、小集団におけるルールがより大きなルールとぶつかったのだろうと推察できます。小集団はこれまで世間から隔絶されることを目的として集団化したようなものなので、そのルールは当然世間に通用するものではないのですが、時が過ぎ小集団内の構成員が現在の自らの立ち位置を見誤ったことで炎上が起こったのでしょう。自分も立ち位置を見誤るような年齢になってきており、時代の変化について考えなければならない、と締めくくっておきます。

 年末か来年にはまたなにか書くかと思います。その際はよろしく。