本年のまとめ

 今年は本当に不活性というか、世間も自分も何も出来ずに終わった感があり、なんとも隔靴掻痒の年となりました。こういう年があったことを将来的にも忘れずにはいたいものです。

 

陰謀論には注意

 なにより個人的に忘れてはいけないと思ったのは、「この年を境に“オカルト遊び”をある程度限定的なものに留めなければならない」、という教訓でしょう。テレビでディープ・ステートの名が語られるまではいいのですが、本気で信じている人々が増加しているのを見てしまうと、冗談でも記述するのを控えなければいけない、と思います。

 そもそも“オカルト遊び”は何をするにも「信じているフリ」が重要なわけで、表立って否定せず、センスの良い人にだけ真意がわかるようにするプラクティカル・ジョークです。その意味でも、過激な米国共和党支持者たちの言説をそのままテレビで扱っていた某番組の姿勢は非常に危険なのではないでしょうか。信じるか信じないかは当人次第と言いながら、冗談の余地がなくタレントをメンターのごとくに崇めかねない演出までなされていました。

 それでも全体として捨てねばならぬ思想が判明したことは喜ぶべきことでしょう。現代の陰謀論は実害を持って我々の前に出現したとも言えます。選挙における陰謀論は内戦に直結しますし、インフラへの信用の失墜は生活基盤そのものを脅かします。それらのすぐに危険とわかる陰謀論も、“イルミナティカード遊び”等の実害のないものと地続きであることが示されたわけです。日本においても、オカルトで遊んでいたつもりのあなたの隣人が富士山消失を訴え、5G通信を恐れて自殺するかもしれないというところまで来ていると考えるべきでしょう。

 いわゆるオタク趣味の人々は、そういう陰謀論から遠い人種と思われていましたが、米国では積極的にそういう趣味の人々がハマっていますし、国内でも某掲示板の政治板がそのような人々の巣窟になってしまいました。遠い国の話ではないと考える必要があり、これらの動きには注意していく必要があるはずです。

 

オタク趣味の転換点

 オタク趣味といえば、露骨にそちらの香りを持つ『鬼滅の刃』が記録的興行収入を叩き出し、社会現象となりました。これをもってSF的に言えば「オタクの浸透と拡散」が完了したと言えるでしょう。これからは違和感もさほどなくオタク趣味のイラストが街の風景に溶け込むわけです。美少女イラストの看板を見てしまったときの気恥ずかしさはもはや過去のものです。

 小説においてもライトノベルと一般小説のパッケージングに違いは見つけにくくなってきています。内容的にもファンタジー色の強さは作品固有のパラメーターに過ぎず、大きな括りでは違いを見分けるための指標にはならないでしょう。

 これを浸透と拡散と称したのは、SFの退潮と相似形となるであろうからです。ゲームもアニメもなんであれとりあえず見る、というオタクスタイルは消え去り、個々人は絵柄やストーリーによって細分化されたコミュニティを探して安住し、そこから出てこなくなるというのが主流となるでしょう。それが一般的なカルチャーの消費スタイルとなれば、コアなオタクは過去のヒット作に拘泥し続けるしかなくなり、それらへのオマージュを捧げた作品のみが「ハードオタク」などと呼称されることになっていく未来も予想できます。

 鬼滅のヒットで証明されたのは、オタクは作品こそ発信こそできるものの、ヒットを生み出すための宣教師にはなれない、という事実でした。コアな人々がどう作品を紹介しようとも、ヒットを作り出すのは趣味のネットワークでなく、生活のネットワークでつながる人々だったという分析は可能でしょう。

 

これからの展望

 ことカルチャー、コンテンツに関しては、「マーケティングではキャズムを越えられない」というべきでしょう。我々作家の生き残りは困難になりますが、細分化したスタイルを貫徹することこそが、大ヒットにも、作品継続のためのファン獲得にも繋がるのではないでしょうか。より良い未来は中々見えませんが、ファンの増加と構造改革のために努力していくしかないようです。

 

来年度よろしく

 そんなわけで来年もよろしくお願いいたします。参加させていただいているアンソロジー・シリーズと何かが出るはずです。現在心からの趣味で書いている作品はこちら。青年誌的なバイオレンスのあるサスペンス作品となっております。

 

novelup.plus

 

 

 

 来年が良い年でありますように、と切実に祈ります。

『クルセイダーズ』

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他言語版です。

 去年ツイッターで話題になった作品です。テーマはタイトル通り十字軍! 昨今の情勢においてこのテーマとは思い切ったなぁ、と思っていると、マニュアルの最初に「差別的な意図はなく、十字軍の再現をする目的も無く……云々」という意味合いの長文が書かれております。単に中世の騎士団フレーバーが欲しかったわけですね。確かに十字軍の歴史はまったく無視されており、聖地の奪取、防衛などにも意味は持たされておらず、プレイヤーが使用できる騎士団は時代も場所もまちまちのものとなっております。騎士団の特徴はキャラクターゲーム的に能力が設定されており、純粋なゲーム性を追求されて制作されたものだとよくわかります。

 とはいえこのフレーバー、思いの外ゲーム的にも面白い扱いをされており、ゲームの終了条件である「全プレイヤーが得た影響力ポイントが一定を上回ったターン」は「騎士団の影響力が増えすぎたためフィリップ王がこれを粛清する」となっております。修道騎士団の末路! なお「聖戦」で倒すとポイントに化けてくれる異民族はプロイセン、スラブ、サラセンとなっており、いろいろスレスレです。

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個人ボード。綺麗にはまるようになっております。

 本ゲームの特色は行動がマンカラ系のマーカー移動によってなされることです。「移動」「聖戦」など行動が割り振られた三角形のタイルが組み合わされた六角形のウェッジと呼ばれるダイヤル上に置かれたマーカーが行動力を示しています。タイルを選び、そのマーカー分の行動力を行使した後、マーカーは時計回りに隣接するタイルに一個ずつ置かれていくのです。これにより、同じ行動を連続することはやりにくくなっており、かつ数ターン先の行動を予測してマーカーを配置しなくてはならないというのが面白さとなっております。

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ゲームが進んだ際のボード。

 ゲームは三人で200、四人で260点がなくなれば終了となるので、70点くらいが最終ターン目前までに獲得しておくべき目標ラインとなります。得点方法は異民族の討伐、及び行動「影響」があり、特徴的なのはこの「影響」行動です。タイルに乗っているマーカー+各種ボーナス分のポイントを直接ゲットできるのです! 布教や政治活動ってやつですな。異民族は最終的に10点になってくれる(ただし戦闘力も10)のですが、討伐には同じだけの戦闘力(マーカー数+徴兵ボーナス)を用意しなければならず、数ターンを犠牲にマーカーを動かさなくてはなりません。が、「影響」ならたまたま集まってしまったマーカーを動かしつつポイントに変換できます。

 まだ一回しかプレイしていませんが、得点方法には大きくみっつの方針があるようです。それは「異民族討伐」「建築物コンプリート」「影響マーカー」。陣取りゲームの要素も強いので、重視している方針が他プレイヤーと重複すると具合が良くない模様です。異民族も建築物もボード上のマスの数に制限がある上に、騎士団同士は戦闘できずすべてが早いもの勝ちであることがジレンマとなります。すべてをバランス良く行って行くことも大事なのですが、累積ボーナスとマーカーの偏りが終盤に集中するため、ポイント獲得が加速度的になることを考慮すれば、終りが見えた瞬間に照準を合わせるプレイが重要になるでしょう。全体獲得ポイントが終了ラインを越えても最終ターンで点数の獲得は可能なので、ここで逆転するバランスにゲーム全体が調整されています。

 ざっと概要と攻略について触れましたが、本作のなにより良いところは、ルールも簡単で、一時間程度で終わる中量級ゲームであるという点でしょう。セットアップこそ大変で重量級を感じさせますが、各ターンで単純な一手しか行えないため、ダウンタイムも無くサクサクとゲームが進みます。さらにやりこみ要素も見逃せません。ウェッジは全プレイヤー共通であるためランダム性もなく、行動順が同じであれば何度でもマーカーの移動は再現できます。ボードの配置こそランダムですが、記録さえしておけば、どこで間違えたのか確認することが可能です。そこに騎士団選択も加わります。騎士団の独自ルールのほとんどはマーカーの数や移動に特殊性を持たせるものなので、「この順番でこの行動をこのマーカー数で可能なのはこの騎士団だけ」というキャラクター性もあります。

 このように本作は非常にオススメ。手に入れにくいことはあるかもしれませんので、感染に気をつけて取り扱いのあるボードゲームカフェなども視野に入れてはいかがかと思います。

『ダイナマイトナース』旧版

 久々のゲームプレイ日記です。今回のプレイは『ダイナマイトナース』旧版。中古価格が急騰しており、貴重なゲームとなっております。復刻でなく続編のリターンズで2011年作品ですので、本作、そして拡張続編の2はどちらも若者は生まれていないくらいの古さです。

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このサイズのボックスカードゲームが流行った時代があったのだ

 学校に持っていきやすいサイズと萌え絵という言葉はないが概念が育まれつつあった頃の高校生オタクグループに大ヒットした作品です。この頃は女子キャラの属性が言語化されておらず、イラストレーターと少年たちがイラストひとつで煩悩を共有するというオタク総超能力者みたいな状態でした。二次元に飢えてた時代でしたなぁ。

 ゲーム内容は患者カードを相手に押し付け、ナースカードで治療できなかったら病状悪化、死亡者が累積したらゲーム脱落という最初から不謹慎なものとして作られています。時代だねぇ。もちろん当時のものなのでバランスは悪く、最初はまんべんなく全プレイヤーに患者を渡すものの、少しでもミスって他よりも患者が多いプレイヤーに全員が集中攻撃するというプレイにしかなりません。戦略性ナシ!

 しかしながら雰囲気は楽しく、いや、正確には当時のオタクたちには楽しく、現代では不謹慎を笑いにすることへの耐性やらセンスやらが問われる微妙な雰囲気が流れます。でも当時を思い出せる人は童心に帰れるはず。まぁ若手の現代アナログゲーマーにとっては、我々が子供の頃、父親からビー玉やメンコの遊び方を伝授されたような感覚だろうけど!

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そううつ病という現代的でない表記が


 ちなみに写真の「奇跡の生還」にはマンモスラッピーという表記が。文化研究的観点からも漏れてそうな語です。ガチ目なアウトローがなぜかぶっとんだキャラ性でアイドルやってて世間にバレていなかったんだからすげぇ時代だったな。

 というわけでオススメしようにも手に入らないゲームの紹介というか、単なる過去話でした。

マイナージャンル小説が生き残るための試案

現在の小説業界の問題

 以前から小説の売り上げの問題は様々に議論されてきました。これはライトノベルやWEB小説に限らず、小説、あるいは出版会全体の問題と受け止められていますが、一文で示せば「小説が金にならない」。これに尽きると思います。

 この日記で書いてきた種々の問題も、売り上げの不足から派生したものに過ぎません。作家のSNSをどう扱うかや、ジャンル分類、コニュニティ維持等の問題も根本的には全コンテンツが売れていれば解決するものと考えられます。

 売れれば解決するというのは乱暴かと思われるでしょうが、過去の極端な例としては文学不良債権論争、というものがありました。要約すれば「純文学、文芸誌は単体で赤字であり漫画の利益で補填されている」という指摘があり、紛糾したのです。単体で売り上げが足りない小説は維持されるべきなのか? 継続すべきならばどうやって? という問題は昔から根深く、問題の中核にあったのです。

 それは文化的な後退が起こることに対する恐怖によるものでしょう。先に書いたバグ理論でも語ったように、人間の思考パターンのリストを保持し、その変化を追い続けないと、個人にとっては自らの精神構造が理解できないことになりますし、社会全体にとっては共同体を維持していくための理念が存在しないことになる、そういう恐怖です。そして、文化的な後退を招かないようにする努力は、売れないものは消滅してしまう資本主義とは非常に相性が悪いのです。

 これは本来は売り上げとは無関係に存在できるはずのWEB小説においても同様でした。小説が無数にあるため読むコストが高いことから、検索性が高い小説にのみ読者が集中するのです。さらには上位が書籍化、コミカライズされることで資本主義システムがより加速するという状況が生まれています。それを回避すべく編み出された個人ごとに嗜好を絞った検索のカスタマイズも、かえって先鋭化と分断を招いてしまうことも以前に書いた通りです。

 

作家が売っているのはコンテンツではない

 これらの問題について考えた結果、原点である「小説が金にならない」という問題の選定の仕方が間違っていることに気づきました。そして、それへの対抗策が既存の構造、あるいは資本主義的構造から外に出ることに集中していたことも間違いだったのではないでしょうか? 端的に言えば、作家は「売るものを間違っていた」のです。

 小説でなくIPを売るというのも別のものを売るという発想ではありますが、メディアミックスは新しい発想ではないですし、既存の構造の亜流であるばかりか、問題を大きくしているに過ぎません。そもそも作家は読書体験を売っているのであり、それを回収する手段がコンテンツビジネス、多くは書籍販売に偏っていたというだけのことなのです。

 そのビジネスが成り立たなくなってきたのは前述の通りです。読者からすればコンテンツは(見かけ上)無料になってしまいました。クオリティの劣ることのないものがWEBで無限に供給されているのですから、購入動機はイラストやロゴまで含むパッケージ、アイテムとしての書籍と、ページをめくる体験、あとは作家の応援というところでしょう。潜在的に顧客を失っているばかりか、パッケージングが難しい小説はそもそも金銭化できないということになってしまいました。

 

では作家が売るものは

 そこで提唱したいのは「作家が執筆活動全体をスポンサーに売る」ことです。これまでも純文学は作家の人生相談や日記などを売ってきましたが、それを拡張しようということではありません。ここで言っているのは、作家の活動とイメージ全体を売ること。つまりプロスポーツ選手のように年間の専属契約を年俸制で行ってみてはどうか、という提案です。

 雑誌等での作家の専属契約はこれまでもありましたが、主に排他的な目的で交わされる少額のものでした。ここで提唱する“プロ作家”とは、企業やチームに年俸で雇われ、その期間、雇用主のイメージを上げるために執筆活動を続ける、というものです。

 いわゆる編プロ、IPコンテンツ事業者との決定的な違いは、作家に求められることが小説や日記の内容やイメージであり、コンテンツ売り上げとは無関係であることです。もちろん出版、映像化などがあり有料コンテンツが出た場合、売り上げは作家でなく雇用主に渡されますが、それにより書籍化しないものの優秀なコンテンツを守ることができるわけです。この場合の“優秀”というのが雇用主の主観になるのは当然ですが、いわゆる“ジャンル”というのを守ることを目標に掲げるチームなら、雇用主が直接出版事業を行うよりも少額で特定ジャンルを守ることが可能でしょう。

 ユーザーによる定額制のスポンサード、あるいはオンラインサロンとも異なるのは、作家の活動をクローズドにする必要がないことです。これにより作家の暴走や、意見の先鋭化、そもそも詐欺等を防ぐことができます。

 作家にとっても固定の収入は作風を安定させてくれますし、現状でも出版作家にはSNS等でのクリーンな発言が出版部数を問わず厳しく求められ続けていますので、公表している活動全体を売ることに抵抗はないでしょう。

 

この契約方式の問題

 この案で問題になるのは、プロスポーツと同様、チームが集めるスポンサー料金で運営しなければならないため、文化事業であることを理解しているスポンサーが広告効果を認めて出資してくれることを期待するしかない、という点でしょう。小説の未来を憂う企業が増えてくれなければ実現そのものが不可能です。

 さらに小説サイトは企業の宣伝として小説を書くことを認めていません。これはマルチ商法流入を避けるための措置ですが、健全な企業の流入も拒んでいます。そもそも健全な企業とそうでない企業を見分けることは難しいのです。

 もちろんノンジャンルでチームを組んでしまうと高収入作家にのみ重圧がかかり作家感で互恵的な関係が築けないという旧来の業界情勢と変化がなくなってしまうというのも考えられることです。そこがあくまで雇用主の良心に委ねられるというのは最大の問題となるでしょう。

 

それでも提案する理由

 それでもこの案に利点はあると考えています。出版業界の規模縮小は仕方ないとしても小説やジャンルそのものの消失は望んでいない人が多いと信じていますし、小説の熱心なファンはこれからでも作り出せると確信しています。

 加えて作家の“プロ化”は、小説そのものに広告を投じるより、作家やジャンルに投資できるという点、年俸が他の手段による広告出稿よりも高額にはならないであろう点も利点になるかと思います。

 最後に、これは問題点にもなり得ますが、作家による思想、言論の表面化、チーム化により発生する小説論争、現状では左右両極に先鋭化している思想シーンの多様化、並びに少数意見のすくい上げも可能になるのではないでしょうか。

 

ただし試案にすぎない

 この案が既存の出版構造やWEB小説の現状を壊すことはありませんが、即座に実現という未来も中々難しくはあるでしょう。まだまだ私が考えついていない問題点もあることでしょうし、私自身がもし、私財を投じてチームを作れと言われたら躊躇する程度の覚悟で提案しています。まずは試案まで、というところでしょうか。

 しかし、今後、純文学やマイナージャンル、さらには電子化していく小説を守ることができる方法として書いてみました。

物語=バグ論

RTAにおけるバグ

 ゲームのプレイスタイルに、RTAというものがありまして、これはゲームスタートからクリアまでの時間を競う遊びです。Tの前にRがつく(Real Time)ことから分かる通り、ゲームを中断せずにクリアするまでのタイムを競うものですので、RPG等、長いゲームの場合、バグを利用することが多くあります。

 このバグ利用、一見すると不正とみなされそうですが、ゲームソフト、及びゲーム機器が正規品であり、かつ再現性のあるバグであるならば、認められるばかりかバグ発見が讃えられることが多くあります。

 しかし、このバグに再現性があるという部分はイコール「バグの仕組みが公開される」ことと同義です。かつて、ゲームセンターでシューティングゲームのスコアアタックが盛んだった頃、バグ利用のスコアが問題になったことがありました。よくまとまっているのは下記の記事です。

automaton-media.com

 今回、このことを取り上げたのは、小説の価値は売り上げ(閲覧数)にしかないのか? それ以外の価値もあるのではないか? 売り上げを伸ばすために自分のやりたいことや読者が本当に望んでいないことまでやる必要があるのか? という問いに対するヒントがあるように感じたからです。

 RTAにおけるバグは上記のようなものですが、次はeスポーツにおけるバグについて見ていきましょう。こちらは少し性質が違います。

 

eスポーツとスポーツにおけるバグ

 昨今eスポーツとして対戦ゲームが取り上げられる機会が増えています。これらはゲームですので、バグはつきもの。特にゲームシステムそのものにバグに等しい不平等を抱え込みやすいカードゲームや格闘ゲームは、バグ修正はもちろん、調整と称するカードやキャラクターの技の強さを事後的に変更することは当たり前になっています。

 ですが、バグ修正前であれば、そのバグはいわば使い放題ですし、強い戦術やキャラクターを使わないことは勝敗を競うという前提を覆しかねません。スコアアタックでそうであったように「知られているバグは使い放題」であるのです。これは一見するとゲーム文化に独特のものに思われますが、実はスポーツ全般にも見られる事象です。各スポーツの協会がルールや使用器具をいきなり変更した例は、スキージャンプや柔道、F1などいくつもあります。柔道においては、その昔、レスリング的なタックルを「両手刈りである」と主張することによる掛け逃げが強い、というバグが発生しました。F1はバグと規制の追いかけっこで、新技術が投入されるとそれが出来ないように翌年にルールが改定されることは当たり前で、これはeスポーツとかなり似通っています。

 重要なのはバグがフィックスされてルールが更新されてしまうことで、スポーツが「なんでもあり」な状況を非常に嫌うことがわかります。これは、現実がなんでもありなことの裏返しでしょう。

 

勝敗を競うこととバグ

 さて、その点で、小説は「なんでもあり」な側に属します。スポーツで言えば、違法行為以外はどんなにズルいと思われる行動でも修正されない状態です。柔道がもしタックルを許せば柔道の本質のようなものは消えてしまったでしょう。ですから、直感的には、バグを修正する方が正しい行動のように思えます。我々は強いバグを発見してしまうと、スポーツのようにルールの変更を求めるか、それを使用しないモラルを求めてしまうものなのです。

 そこで勝利至上主義と娯楽主義の対立のようなものが生まれるというわけです。ライトノベルにおいては「現在流行っているテンプレ、及びタイトル」を使用するかどうかという問題は、上記のような直感が原因になっていると理解いただけると思います。事実としても、テンプレや流行のフレーズが入ったタイトルは、内容と無関係にともかくクリックを誘発するために使用されているのは確かです。導入や楽しみ方もテンプレによって同一になってしまうのも事実でしょう。そこで「流行るものは全部同じもの」「本来の小説ではない」「閲覧数だけ競って楽しいのか」などという非難が起きることになります。

 勝利至上主義はスポーツにおいてすら疑問視されることがあります。小説においては疑問視されるのが当たり前です。この疑問に対する回答として「閲覧数(売り上げ)のためになんでもするのは当たり前」であったり「作りたいものを作りたいなら売り上げは捨てるべき」「勝利条件は売り上げだけじゃないのだから目的を別に用意しろ」などが用意されています。ですが、それは本質的には解決策にはなっていない気がします。

 

小説はスコアアタックをどう扱ってきたか

 まず小説の売り上げ競争は、スポーツよりもルールが更新されないゲームのスコアアタックにより似ていることになります。読者が多く反応するという“バグ”を見つけ出した者が初期には有利になるが、情報が伝達されるにつけバグ利用が上手い者が勝ち始め、情報が行き渡った頃には、バグを組み合わせて意外な使い方をするか、新たなバグを発見する必要が出てくる。この競争は前述のように強いバグが支配的になる一方、それと組み合わせる小さいバグを発見した者には栄誉もスコアも与えられないことになります。

 この不均衡に小説は「ジャンルでくくる」という解決策で答えました。自然発生的なものではありますが、ミステリーやSFのようにそのジャンルを支える強いバグを固定することで、種々の問題を解決したと言えます。

 

ノンジャンル娯楽小説の漂流

 いわゆるなろうでないWEB小説は、現在、というか将来もノンジャンルでしょう。サイトによってジャンルをくくってくれるタグこそあるものの、そのサイトにおいて強いバグは流動していくことは間違いなく、いずれそのジャンルのバグが強くなることはあるかもしれませんが、それがいつになるかは誰にもわからないことでしょう。

 これまでのような考え方に従えば、いつか来るハイスコア更新のために、たとえ栄誉が与えられなくてもバグを保存し続け、バグのリストを構築し続ける、長期的にはそれが売れない小説の役割ということになります。

 

小説=バグのリストである

 以前にも小説におけるバグを発見するような読書スタイルについて言及したことがありますが、この解釈に則れば、実は小説、あるいは人口に膾炙し、人を楽しませる物語はバグのリストである、とまで拡張できるように考えられます。つまらない現実、あるいはわかりにくい現実を脳内の願望に従って、単純化、類型化、非現実化し、歪める行為であるからです。

 実生活のような「なんでもあり」の領域においては、法の支配といえどその上位には物語性が屹立していることが理解できます。宗教、神話などはかなり強いバグであり、「スコア=多数の人が物語に耽溺すること」であるとすれば、信仰により人間はものすごいスコアを叩き出してしまいます。

 極論すれば、人間が生きていく上でのルール、言葉を変えれば「正常なゲーム」は細菌や昆虫が示してくれるような生き方なのでしょう。それ以外はほぼバグであるとまで拡張しても良いような気がします。人間の精神は入力した言語の微細な変化だけで正常でない奇っ怪な出力を返すというようなバグでまみれているのです。

 

バグ屋

 「人間精神に内在するバグ=物語」という解釈は、作家という職業の可能性を示唆してくれます。純文学という構造が必要だったのは、新たなバグの発見、バグの研究をするためであり、制度化して保護されなければ将来のハイスコアに繋がらないと考えられたからであり、WEB小説はその制度が作られた理由に現在直面しているというわけです。

 では売れないが新たなバグを見出していたり、過去のバグを保全しているような作品が制度や権威により保護されるべきかというとそうではないでしょう。これまでは出版という形態が、いわば権威としてそのような作品を保護していました。これを貴族制のようなものと例えるならば、すでに民主化は行われつつあるのです。

 その民主化によって起こる問題について語るのは別の機会に譲るとして、バグ研究家としての作家は、諸々のメディアにバグを提供していくというスタイルによって生きながらえるという結論になるかと思われます。小説というメディアにこだわりがあっても、それはメディア運営者にバグを売っているという理解をすることになり、バグ研究と実験は売り物ではないというスタンスを取るしかないのではないでしょうか。

 

バグの破壊力

 またも小説家という職業は専業には成りえないという結論になってしまいましたが、それでもバグの破壊力を知る者としての価値は社会に必要不可欠なものであるとは思います。扇動の言葉を陳腐化することや、人間を間違った方向に突き動かす衝動を与えることはバグにしか出来ないことなのですから。

note退会しました。

 note退会しました。理由については様々ありますが、多くの方と同様です。

 作品、記事については移行する方向で作業します。有料記事につきましてはそのまま無料公開とはいたしませんが、変化した時代に合わせた小説の書き方については今後書いていくかもしれません。ご了承くださいませ。