謝罪とおしらせ

 ご覧の皆様にはお世話になっております。

 申し訳ないことに、この度、私が指導を行っております根岸和哉がノベルアップ+様に対し、SNS上で名誉を毀損するような発言を行ってしまいました。該当ツイートは削除されておりますが、許されないことと思い、ここにお詫びするとともに、指導力不足につき、軽微ではありますが、私も二ヶ月の間、ネット上での活動を謹慎することといたします。まことに勝手ながら、皆様にはご寛恕を請いたく存じます。

ここまでのまとめ

 ここまでで、ある程度は小説というものについて考えられたかと思います。思弁的であろうとストーリーがなかろうと、主に具体性を持った物語であれば、多くの人が小説と呼んでいるものになるだろうということです。
 そして、その具体性こそが我々を感動させるわけで、たとえ思弁的な小説であっても、それを書いている具体的な主体を感じられれば、それは感動につながります。ベケットの晩期作品『いざ最悪のほうへ』などは、意識だけの存在が無から他者の意識の立ち上げから消失までが具体的に書かれていれると解釈すれば、それはストーリーがあるともいえるし、なんなら多くの作品よりもエキサイティングであるとさえ言えるでしょう。
 二次創作的なものがある程度オリジナルより書くことが楽であるのは、この具体性が最初から用意されているからにほかなりません。舞台やキャラクターがわかっていることは、具体性をあらかじめ共有していることになります。
 ここで最初に話が戻ると、その具体性があらかじめ共有されていることこそが「前提知識」にほかなりません。そのバランスこそ小説に難しいところであるのは、先に説明した通りです。
 さて、次回からは、私のスタイルを軽く説明していくことになるかと思います。少し更新まで間が空くかもしれませんが。

具体性がないと……。

s-mizuki.hatenablog.com

  「明確なストーリーのない小説」、あるいは「ストーリーの弱い小説」は馴染みは薄いでしょうが、実際、複数あります。カフカなどはストーリーがまだ存在する方で、ベケットの後期などは不条理というより思考をそのまま改行なく書いただけというものさえあります。
 しかし、それらが面白くないかというとそんなことはなく、ただ読んでいく瞬間だけに意味があるという点では非常に面白いものです。それに、現代でもそのような小説が残っているのは、それらが面白いからにほかなりません。
 皆が事前に抱いているイメージとは違って、そのような思弁的とか、不条理とか呼ばれる小説は、実に具体的なことが書かれている場合が多いのです。カフカも映像化可能なほどに具体的で、実際に映像化されています(きちんと見ると細部が小説通りでないことも含めて楽しめます)。
 逆に、ただ独善的な心情が書かれているような作品は、実は不条理でもなんでもないということがわかります。不条理で難しい小説について多くの人が抱いているイメージは、実はこの「下手な小説」なのです。
 多くの人が小説を書く際にもこれを忘れています。自分がいかに駄目かを書いて同情を得ようとし、同情を得ようとする自分は卑しい、みたいなループに入る作品です。
 これらに共通しているのは、具体性がないこと。自分がいかに駄目かを書くなら、失敗例を具体的に描けば、読者も楽しんでくれるし、その言語が特殊であれば、文学的な価値も当然あがります。
 このように、小説は明確なストーリーがあろうがなかろうが、「具体的な事例がきちんと書かれている」ことで読者は読み進められるようになるのです。
 一方、真に具体性のない小説は、あるにはありますが、それは具体性を経て到達できる話なので、まずは具体性を持って書かれたものを正確に読み取ることこそが、小説によってあなたの「好き」を発見する方法になる、ということになるかと思います。

正確にドラマの背景を読み取る

 多くの異論はあるでしょうが、小説はやはり基本的にはドラマを語ることに重きをおいています。ごく個人的なことを書くにしても、背後にあるのはキャラクターたちが舞台で躍動するドラマ性です。
 ナボコフが文学講義において生徒たちに課題としたのは、ドラマの背景の読み解きでした。背景、すなわち舞台です。例えば、我々はよく知られている文学作品において、意外なほどに登場人物の関係性を記憶していません! 「『吾輩は猫である』のキャラクター配置」や「『走れメロス』でメロスは友とどのくらいの期間会っていなかったか?」をスラスラ言える人は読後すぐだったとしてもそれほど多くないはずです。
 よく国語のテストにおいて非難される「作者の気持ちを答えなさい」ですが、これを「キャラクターの気持ちを答えなさい」にするだけで、フェアな設問になるばかりか、普段、我々がどれほどきちんと小説を読んでいないかがわかります。正当はほぼ文中に書いてあります。全体のストーリーや作者の意図、あるいは世間での読み方がどうあれ、キャラクターや舞台については書いてあることがすべてです。そして、それを正確に読んでいなければ、「作者の意図」には近づけません。
 もし最初から「作者の意図」から入ってしまった場合、『セメント樽の中の手紙』のようなことになってしまいます。この作品は搾取される労働者の苦しみを描いた作品で、作者の意図もそうとしか言いようがないのですが、だからこそ細部を読まないと意味がありません。手紙を読んだ側である主人公の生活と心情についてのディテールを飛ばしてしまうと、作者の意図しか残らなくなり、無味乾燥で、現代からすれば突っ込みどころしかない作品になってしまうのです。
 それに、小説を「好き」になるのは、この細部のディテールを好きになるからでしょう。文体や雰囲気以前に、何が書いてあるのか、を読み取っていくことが、自分の好きなものを発見できる第一歩になるのです。
 次回は、「では明確なストーリーのない小説はどう読むか?」です。

小説の難しさについて

前回からの続きです。
s-mizuki.hatenablog.com

  「前提知識や前提経験を必要とする小説」に、あまり説明はいらないかもしれません。特に前提経験はすぐにご理解いただけるものと思います。学校生活を送らなかった人に学園物は理解しづらいでしょうし、会社勤めがなければサラリーマン物は響かないことでしょう。
 一方、前提知識となると、例示するのは少しだけ難しくなります。世間で難しいと言われているものと共通項も出てきます。例えば哲学書を読んでいないと理解できない小説などです。国際情勢もそうでしょう。とはいえ、そのようなものばかりでなく、ネットでジャーゴンとして使われているものはすべて前提知識に類するものです。例えば、百合、異世界転生(スキル、ウィンドウ、なども内包しています)などは現在の典型的なものでしょう。
 このように特定の文化に属したものはすべて難しいといえます。小さくとれば個人の日記は自分にしかわからぬように書くことが可能でしょう。一方、大きく取れば、日本語で書かれた日本人の小説には海外の人には難しいわけです。
 これらは対象読者の違いと捉えることもできます。先程例に出したように、もし個人的な言語で書かれた小説があったなら、それは読者が一人しか存在しない小説ということです。
 では、この読者が一人しかいない小説を読むことに意味はないのでしょうか? いや、この小説を読めるようになるということは、一人の人間のかなりの部分を理解したということになるはずです。事前に読み方のレクチャーを受けた上で、一語一語、逐一細かく読んでいく必要がありますが!
 お気づきの方も多いでしょうが、現在、名作とされている文学は、このように極めて個人的な(ただし言語が特殊というよりは語の組み合わせや考え方が特殊な)小説がほとんどだといえるでしょう。実は、文学につきまとう読みにくさや難しさは、かなり個人的な文化の表現であるから、なのです。
 このような小説の読み方は、多くの人が考えているような「おもしろいストーリーを表現するもの」とは少し違うことがおわかりいただけるかと思います。そして、皆が考える「難しい小説」とは違うということも。
 難しい小説は「読者を極大か極小に絞ったもの」と言い換えることも可能かもしれません。個人的でありながら、誰にでも読め、翻訳できる言語で書かれた物語。そういう境地に挑んだ作品は、誰かに文化そのものを伝えて感化するという点で優れており、この世に存在する価値があります。
 次回は、そのような小説を読み解いていく方法について書いていくことにします。

難しい小説?

  前回からの続きになります。

s-mizuki.hatenablog.com

 

 今回からは、小説で自分の「好き」を発見するには、どうしたらいいのか? です。
 結論から言ってしまえば、数を読んでみてその中から共通項を発見する、という作業になるわけですが、小説というのも数を読んでみるのが難しいものです。
 というのも、小説には難度があるからであり、つまり「難しい小説」というのが存在する……というわけです。以前にも書いたことですが、もう一度考えていきましょう。
 さて、この「難しい小説」というのが罠でして、おそらくは一般で言う「難しい」とある程度読み慣れた人が言う「難しい」はものすごく違うものです。
 一般で言う「難しい」というのは、結構昔だと「漢字が多い」だったことがあります! 笑い話でなく、そういう時代があったのです。子供向けと大人向けがきっちり分けられており、子供向けにはすべてにふりがながあるのが普通だった頃です。
 しかし、今でも「語彙が大人のもの」や「新聞に準じた表記」程度が難しさの基準であると考えている人はいるでしょう。あるいは「哲学用語が使われている」か「現実に即したノンフィクションである」とかも。
 そのあたりの認識は「ライトノベルでなく文学を読め」と言っている人のものと一致します。以前、専門学校のライトノベル科の講師をやっていた頃、生徒で「私はライトノベルでなく難しい小説が書きたい」と言っていた生徒がいました。その生徒に「では自分が好きな難しい小説を持ってきて、一ページ目を朗読せよ」と指示したところ、かなりの部分、漢字が読めずに飛ばして読んでいました。が、その生徒は「すでに通読した」と言い張っていました。結局、聞き出してみたところ、その生徒は自伝が書きたいと思っており、その「難しい」とは、自分がメンタルヘルスに通っていることや、バンドのマネごとをやって挫折したこと、などを描けば「重厚=難しい」ものになると信じていたのでした。
 おそらく、これは笑ってはいけないことなのでしょう。一般に言う「難しい」とは、そのような認識であるということです。そして、何が難しい小説なのかがわからなかったならば、あなたもそう外れた認識をしていないことになります(もちろん過去の私もそうでした)。
 そもそも、漢字変換ソフトの指示のままに書かれた文章は「難しい」でしょう。抑々、所謂、所詮、就中、劈頭、など音読されれば意味はわかるものの、漢字としては読みにくいこと間違いなしの言葉はいくつもあります。それらが使われた小説は「難しい」で問題ないでしょう。
 ですが、書き手や読み慣れた人が考える「難しい」はそれでいいのでしょうか?
 もちろんそれ以外の「難しい」があり、それを我々は「難しい」と読んでいます。
 それは「前提知識や前提経験を必要とする小説」です。

小説と内面の理解

 『ノベルアップ+』という投稿サイトがはじまりました。
 こちらで小説を書いております。
 作品はこちら。

novelup.plus

 

 さて、先日このような日記をアップしましたが……。

s-mizuki.hatenablog.com

 

ここで「作家がライフスタイルをまるごと提供することによってコミュニティを作る」ということを提案しました。ライフスタイル=内面の表現方法ととらえ、それを提示するというわけです。
 当然ながら、それを実際にノベルアップ+でやってみよう、というわけです。
 問題は、ノベルアップ+でコラムを書くと焦点が定まりにくくなってしまうこと。ですので、コラム部分は主にこちらでやっていこうかと思います。

 まずは簡単に「内面の表現方法って?」ということについて触れていきましょう。
 内面の表現方法とは、自分の考えを言語化し、他人に伝えていくことです。いちばん簡単なもので感情表現があると思いますが、それにしても容易にできるとは言えません。
 学校でも職場でも、他人に対して何かをアピールすることは容易ではなく、それが上手な人など、それほどはいないことでしょう。コミュニティに参加することでそれが磨かれるというのはわかりますが、私などもそうであるように「コミュニティに参加するためのコミュニケーション能力がない」という状態に陥りがちですし、他者と積極的に交流すること自体を嫌っている人も多いことでしょう。

 そこで、まずしなければならないのは、好きなものを評価していくこと、です。
 SNSにも多数問題はありますが「RT」や「いいね。」はかなりの発明です。好きなものを評価するのにややこしいことをする必要はありません。まずは反射的に「RT」「いいね。」をしてから、数日後、それを自己分析していきましょう(もちろんSNSはなんでもかまいません)。
 自己分析の方法は「RT」や「いいね。」から共通項を探し出すこと。ざっと見るだけでも大体の傾向が見えてきます。
 そこで見えてくるものが内面、というわけです。
 ただ、それがはっきりわかる人というのは少数派です。風景や猫の写真ばかりで自分が何を好きなのかわからない、というのが大半のケース。
 そこで補助線になってくれるのが「小説」なのです。

 小説に対しての「好き」は、ほんの少しだけ内面に迫ってくれます。ベストセラー小説は好きな人も多いですが、いくつか読めば、どうにも向いていないと感じるものだってあるはず。少なくとも誰もが好きな猫の写真よりは、好き嫌いがはっきり見えるはずです。

 今回の話をまとめると、「コミュニケートのために内面を知る必要がある。内面を知るには小説の好き嫌いが早い」。ということになります。
 次回は、小説の読み方を改めて書いていくことになるでしょう。