『道化か毒か錬金術2』続報

6月1日発売『道化か毒か錬金術2』!

道化か毒か錬金術2 (HJ文庫)
 

  現代で魔術がある世界となっている本作、明かされる特色は「異世界の強力な魔術的存在が人間の信仰を調べ、自身の特徴に近い神や悪魔、妖精などと名乗り、人間と取引している」というもの。「俺、すごい力ある乱暴者だけど、人間からパワーをもらいたいから嵐の神と名乗って信仰してもらおう」などとやっているわけです。

 自分の興味対象として「信仰ってなんだろう?」というのがあり、神が実在で不完全なものだった場合どうなるのか? なんてことを少し考えてみました。

 もちろん、固い話ばかりでなく、基本はスッキリ楽しいエンタメ。さらには今回は陰謀劇&前巻での疑問点や伏線はバリバリ回収されていきます。ロサ・モレッティもマルレーン・ビーケンも再登場。ガッツリとかかわってきます。

 新キャラクターは名前だけ登場していた皇帝に、真顔を崩さぬ少しズレたショタ! どんな活躍になるか期待してお待ち下さいませ。

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フエ星人から本作の説明を受けるころねさん。

道化か毒か錬金術2!

6月1日発売『道化か毒か錬金術2』の紹介です。

 

道化か毒か錬金術2 (HJ文庫)
 

  表紙は今回もお洒落。

 さて、前巻のギャグ寄りコメディとめちゃくちゃな自由さは崩さず、今回はアクション巨編となっております。洋画っぽさはより強くなり、欧州各地を飛び回ることに。よってパスティーシュ感はスパイ映画分も強めになっておりまして、Netflix等で『ボーン・アイデンティティ』を見ておくと笑えます。

 今回も概念的になったり前衛小説になったりはしないエンタメですが、長編だけにちょっとだけ重め。キャラクターの印象や関係性の変化を描くためのものです。楽しんでくださいませ。他に世界情勢成分もちょこっと強化。今回はウクライナ。あらかじめ概要を知っておくと楽しいです。

 さらには、どこが今の世界と違うのかという世界観も全容がわかります。そのあたりは次の日記で!

動員の言葉

 ときどき小説の読み方について書いている本ブログ、今回は前々から言っていた「動員の言葉」について書こうかと思っています。

 「動員」とは、狭義には「戦争のために人員を組織化すること」を指しますが、現在では「ある方向へ多数の人や物を集めて動かすこと」全般として使われています。観客動員、とかですね。

 「動員の言葉」は、私が考えた用語で、昨今目立ってきた政治言説や、売上のみを重視する言説、あるいは説教をしてくる漫画家自身が主人公としか思えない漫画などを見て、それらに共通する特徴があることに気づいたことから思いついた言葉です。

 その特徴とはもちろん「扇動すること」です。政治言説は《首相くたばれ》や《某新聞は馬鹿》程度のものを左右どちらの陣営においても最も最底辺のものとしますが、いずれにせよ「他人の同意の確認」と「同意者を増やしたい」という意図が含まれます。物を売りたいとか説教漫画においても、社会を良くしたいと意図して発せられた言葉にもかかわらず違和感を拭えないのは、無意識のうちに扇動しようとしているから、です。上から目線であるから、とか、鬱陶しいから、とかは扇動者を見たときの感想であるわけです。

 では、その言語的な特徴はなにか? それはもちろん、扇動者、攻撃対象、行動指示、が含まれていることです。《(発言者)「(攻撃対象)は○○の特徴を持つ。そのため(行動指示)しよう」》と要約できるなら、それは「動員の言葉」であり「動員の文法」が使用されているというわけです。

 無意識のうちにこの「動員の言葉」を口にしている場合、次のケースが考えられます。

    • とくに言うべきことがないのに発言しようとしている
    • 自分も動員されている

 どちらのケースも悲劇です。ツイートやブログに「動員の言葉」を連投していたら、このふたつを疑った方がいいでしょう。「動員の言葉」は、公共の場で発言せよ、と指示されたとき、もっとも口にしやすい言葉です。そのため言うべきことがない人が発言しやすいのです。さらに、それらの攻撃対象が政治体制や権力であったとき、同意してくるのは発言者に扇動された人でなく、扇動者そのものです。「そうだ!」の声を期待しての発言、あるいは本当に「そうだ!」の声が動員の言葉に対して返ってきたなら……気をつけないといけません。あなたは指揮官でなく、兵士なのかもしれません。

 

 で、残念ながらこの文章も「そうだ!」の声を期待して書かれています。そして、悪質なことに、上記とは無関係な本を売ろうとしています。数日中にまた宣伝しますが、いろいろグダグダ言っている作者の本、もうすぐ発売です。動員されて買ってね!

 

道化か毒か錬金術 2 (HJ文庫)

道化か毒か錬金術 2 (HJ文庫)

 

 

グローランサ!

令和もゲームするぞ! ってなわけで、特別に未翻訳のゲームをプレイする機会にめぐまれました。そのゲームは『グローランサ:ザ・ゴッズウォー』!

boardgamegeek.com

本作は『クトゥルフ・ウォーズ』のメーカーが作った同じタイプのゲームで、基本は陣取りゲーながら、大型フィギュアとキャラクター性重視のゲーム性がウリとなっています。大型フィギュアがどのくらいでかいかというと……。

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でかい。

世界観は名作TRPGルーンクエスト』のグローランサ世界。神話の神々が殴り合います。英雄も神々も地獄だろうが天国だろうが海だろうがフラフラ移動し、死んでもカジュアルに復活します。

ストーリーは神話なので、太陽神がうっかり死んで地獄へ行ってしまい「地獄が明るくなってやってらんねぇ!」と暗黒の勢力が地上に逃げてくるところからスタートです。ですが、神々の敵は暗黒でなく、その隙にどっかからやってきた混沌。混沌の渦が開いたり閉じたりするんで、それを皆でなんとかしようというお話。しかし神話を語り継いできたのは各勢力の信徒たちなので「いや混沌はウチの神だけがなんとかしたんで、他はサボってたよ」と各自主張しているという次第。じゃあ真実はどうだったの? 続きはゲームで! という壮大なプレイフィールが楽しめます。

自分は「月」をプレイ。同じ世界感を持つファンタジーシミュレーション『ドラゴンパス』で「ルナー帝国」だった奴らですな。

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女神がイカすぜ。

特徴は「月の満ち欠け」で最強から最弱まで変化する戦闘力と、他の神々より後発の勢力のため奴隷制などを利用していること。

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独自ルールの塊のボード

全員が初プレイだったため、どういうゲームか手探りだったのですが、勢力独自のルールが満載だったため、いわゆる定跡が存在し、全員がそれを外してしまうという感じでした。これは二度プレイすべきゲームという感想で一致。

ちなみにプレイ後に気づいた月の定跡は早いウチに「セデーニャの『月経』能力でセレーネを全部召喚し、月齢を一周させ、4アクション使うものの、セレーネでゲットできる3パワーにより、実質1パワーでルーンを得る」というもの。初回でわかるか、そんなもん!

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壮大な世界を感じられるボード

しかし、実は練られたゲームバランスと、贅沢なコンポーネントでアガること請け合い! ケチをつけるところはほとんどありません。定跡があることも、「上達の余地があるので複数回プレイできる」と考えれば、なんの問題もありません。

難点はふたつ。「ラストの勝敗にカタルシスがない」ことと「高価&日本での入手困難」というところでしょう。プレイに広い場所が必要なのは、まぁ別として……。

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ラストバトルだ全員集合

拡張を含めると二桁万円くらいいくらしいけど、プレイする機会があったら逃すんじゃない! とだけ今回の記事では書いておこうかと思います。

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にぎやかになった盤上

 

小説サイト乱立時代とこれから

 小説投稿のサイトが増え、世間(というか主に運営側)で叫ばれることは「死にかけた出版業界の再生を」や「異世界転生ばかりではない小説の多様性を」等なのですが、それに全面的に賛成している人は少数であろうことは市場が証明しています。たとえ「ユーザー(読者&作家)を大事にする」姿勢を示そうとも、何も起きないままでしょう。

 小説の投稿しやすさも読みやすさも、それによって生じる恩恵も、最終的に市場の拡大が目的であるならば、いわゆるコモディティ化を後押しする要素にしかなりません。結果として個性の無いサイトが並立し、多様性すら実現は不可能であることは誰でも予想できることでしょう。小説投稿サイトは、そのサイト内に読者を拘束することを是とします。それは悪ではないのですが、映画配信サイトの抱える問題の縮小版(つまりより悪い!)として「共通言語としての小説」が失われることが起こります。

 では「共通言語としての小説」が失われることの何が悪いのか? それは「レアではあるが確かに存在する人間の思考パターンが多数の人に知られなくなる」ことが起こるからです。生活している上で役に立たない思考や、隠しておくべき事柄などは、物語の形でしか認識されません。小説は低コストであるがゆえに近代ではパーソナルな物語を扱うことが可能なジャンルでしたが(国民小説のような機能は映画やテレビへ移行したこともあり)、それらが人々の目につかないところに行ってしまうのは損失でしょう。

 現状では、多くの出版人が国民小説を取り戻そうとしているようにしか見えず、投稿サイトもそのように使おうとしているようです。売れる小説をメディアミックスし、それによって「良心的な(出版人はそう思っているであろうという意味で)」作品を出版する。そのモデルが衰退しているのにそれを行おうとしているのは狂気ですし、なにより、そのスタイルが「売れる作品」に対して侮蔑的であることが、ライトノベルと文学の軋轢として表面化した歴史があります。

 では、それにどう抵抗したらいいのか? 「作家がパーソナルな内面を作品として提示し、そのサイト内でライフスタイルのモデルをまるごと提供する」ことにより、作家と読者のコミュニティを作ることが解決策であると私は考えます。作家個人が、読者に対し、いかに内面を表現したら良いかを示すことこそ、小説が生き残っていく鍵になるのだと思います。現状の「お文学」についての愚痴は、まぁ書かないでおくのがよいでしょう。

好きなことを選んでいるのに孤立してしまうこと

 久しぶりの更新になってしまったのは、小説を書いていたからで、まぁ本業といえば本業なのですが、合間にまた文章を書いているのは、不思議な感覚があります。

 それはそれとして、ネット配信の興行収入が映画館を抜いたそうで、隔世の感があります。劇場で見るほどでもない映画と連続ドラマの見方はほぼ決まったということなのでしょう。

 もちろん私もネット配信映画は見ているわけですが、見ていて感じるのは、実は画一性よりも多様性です。同じ配信チャンネルに登録している人は同じものを見る傾向があるに違いないと思っていたのですが、入ってみると「日本では誰が見るんだよ」というようなものが翻訳されて流されているのですね。ニッチなドキュメンタリーや、海外産(例えばベルギー!)の連続ドラマ、インドのアニメなどが一部未翻訳の部分までありながら揃っています。自分が好きなものだけ見ていれば、快適な配信環境になる一方、知人がたまたま自分のリストを見たりすると「なにこれ? わけわからん動画しか配信されてないの?」という反応になること間違いなしです。なお誰にも理解されないリストを作りたければ、アメリカの黒人スタンダップ・コメディを見まくれば(なぜか次々新作が来る)、ほぼ日本人に通うじないリストが出来上がるのですが、それはまぁどうでもいい話。ここでしたいのは、多様性とは孤独に直結するという話です。

 Twitter等のSNSでのフォローでも見るものを限定できることから「偶然の出会いによる成長(嫌な言葉だ!)がない」という意見は少し前からありましたが、配信ソフトの問題は、それとは少し違い「偶然の出会い」も配信ソフト側が演出してくれるという点にあります。GAFAGoogle,Apple,Facebook,Amazon)なんて言い方がされるわけですが、このGAFAはよく非難されている「規格が統一されていることによる世界征服」などは個人にとってはさしたる問題ではなく、むしろ否応なく自分が属しているクラスタを限定させられてしまうことです。ひとつしかクラスタに所属していない人もいないでしょうが、すべてが同じ所属という人はあまりいないはずで、必然、孤独が待っています。もちろんそれぞれのクラスタ内で話が通じるのだから、孤独ではないはずなのですが、後述の理由で起こる「欠落」こそが孤独を生むことになるでしょう。

 その「欠落」とは、「生活していく上で必要な情報が抜け落ちてしまう」ことです。
 まずは「ネット配信」で起こる現象を見てみましょう。ネット配信なのだから、「映画」を見るものと相場が決まっていますが、我々は「映画とはなにか」を映画を見ることから学んでいます。もし見ている映画が根本から異なる二者がいた場合「共通言語としての映画」を持っていないことになるのです。それどころか映画を知らない人も出てくるでしょう。ドキュメンタリー映画については、現在でもすでに見方を知らない人もいることと思います。

 これはどうでもいい話ではありません。例えば「日本の野生環境における外来種の知識」は、おそらくクラスタに属するニッチな知識のはずです。ですが、これを知らないことは犯罪に直結する知識の欠落なのです。他にも、「ワクチン接種の正しい知識」や「アルコール中毒に対する知識」、「ブラック企業からの逃げ方」など生活に必要な知識はどんどん増えているのに、我々はそれから孤立させられているのです。

 私の興味分野でも、小説サイトが次々立ち上がっています。これも構造上、ネット配信が生む孤独を加速するものです。まったく、困った時代に生きているものですが、過去より現在が良いには決まっていますので、「共通言語としての小説」がなくなったときの問題と、そこにどう対処していくべきかはこれから考えていこうかと思っています。

飛んでイスタンブール(ある世代は必ず言う)

 そういえば、割とボードゲームもやるブログなのでした。

というわけで、今回は名作『イスタンブール』。

イスタンブール 日本語版

イスタンブール 日本語版

 

 こちらは商人になり、品物を売買して最終的に速く宝石を手に入れた者が勝つというゲームです。

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ボードはきっちり4×4

ボードを歩き回り、労働者(というか徒弟?)を置いていくことでそこのアクションができるというシステムです。なおマーカーはこれなのですが……。

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同じ顔のオッサン

横から見ると、労働者は厚さが違います。あ、手作業で切ってるな!

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いちばん下の赤が明らかに分厚い

しかし、アバウトな割にはコンポーネントは豪華。荷車も仕掛けがありまして、空いている穴にはめ込むことで荷車の拡大を示しております。

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荷車をすべて拡大するプレイに挑む(なお効率最悪の模様)

コンポーネントとシステムがマッチしており、プレイ中の雰囲気は実に素晴らしく、商売の予定を立てていくのも楽しいなど、名作と呼ばれるに相応しいゲームです。ただプレイにおける「警察署」のルールが我々日本人には謎でして……。

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親族がブチ込まれております

親族が拘束されている警察署まで行くと、親族を労働者としてどこにでも配置でき、仕事ができます! しかし、他のプレイヤーがその親族コマと同じエリアに入ると「告発」できるんですね。親族コマはブタ箱逆戻り。で、馬鹿にできない金額のお金が告発したプレイヤーに入ります! いったい何を表現したシステムなんや。

というわけで、実に楽しいゲームなのですが、プレイして判明した、唯一にして最大の欠点があります。「一度プレイするとゲームに勝つための最短のムーブがひとつしかないことがわかる!」のです。ボードの配置はランダムにもできますので、同じ配置にめぐりあうことはそうそうないのですが、その場合でも基本はそう変わらず、全員が初見のボードでないとファーストプレイヤーが必勝となります。

しかし、ゲームを作る側は当然、そんなことには気づいており、拡張セットが発売されております。これを入れれば、別ルートで宝石を手に入れることが可能となり、ボードをランダム配置にした時、一発で最短ムーブがわかるということはなくなります。 

イスタンブール:コーヒーとお恵みを (Istanbul: Mocha & Baksheesh)

イスタンブール:コーヒーとお恵みを (Istanbul: Mocha & Baksheesh)

 
イスタンブール:書簡と証印 (Istanbul :Brief & Siegel)

イスタンブール:書簡と証印 (Istanbul :Brief & Siegel)

 

 ガチプレイにこだわりたい人は拡張を買いましょう。 

なお、アプリ版もありますので、気軽に楽しみたい人はそちらを手に入れるという方法もあります!