グローランサ!

令和もゲームするぞ! ってなわけで、特別に未翻訳のゲームをプレイする機会にめぐまれました。そのゲームは『グローランサ:ザ・ゴッズウォー』!

boardgamegeek.com

本作は『クトゥルフ・ウォーズ』のメーカーが作った同じタイプのゲームで、基本は陣取りゲーながら、大型フィギュアとキャラクター性重視のゲーム性がウリとなっています。大型フィギュアがどのくらいでかいかというと……。

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でかい。

世界観は名作TRPGルーンクエスト』のグローランサ世界。神話の神々が殴り合います。英雄も神々も地獄だろうが天国だろうが海だろうがフラフラ移動し、死んでもカジュアルに復活します。

ストーリーは神話なので、太陽神がうっかり死んで地獄へ行ってしまい「地獄が明るくなってやってらんねぇ!」と暗黒の勢力が地上に逃げてくるところからスタートです。ですが、神々の敵は暗黒でなく、その隙にどっかからやってきた混沌。混沌の渦が開いたり閉じたりするんで、それを皆でなんとかしようというお話。しかし神話を語り継いできたのは各勢力の信徒たちなので「いや混沌はウチの神だけがなんとかしたんで、他はサボってたよ」と各自主張しているという次第。じゃあ真実はどうだったの? 続きはゲームで! という壮大なプレイフィールが楽しめます。

自分は「月」をプレイ。同じ世界感を持つファンタジーシミュレーション『ドラゴンパス』で「ルナー帝国」だった奴らですな。

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女神がイカすぜ。

特徴は「月の満ち欠け」で最強から最弱まで変化する戦闘力と、他の神々より後発の勢力のため奴隷制などを利用していること。

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独自ルールの塊のボード

全員が初プレイだったため、どういうゲームか手探りだったのですが、勢力独自のルールが満載だったため、いわゆる定跡が存在し、全員がそれを外してしまうという感じでした。これは二度プレイすべきゲームという感想で一致。

ちなみにプレイ後に気づいた月の定跡は早いウチに「セデーニャの『月経』能力でセレーネを全部召喚し、月齢を一周させ、4アクション使うものの、セレーネでゲットできる3パワーにより、実質1パワーでルーンを得る」というもの。初回でわかるか、そんなもん!

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壮大な世界を感じられるボード

しかし、実は練られたゲームバランスと、贅沢なコンポーネントでアガること請け合い! ケチをつけるところはほとんどありません。定跡があることも、「上達の余地があるので複数回プレイできる」と考えれば、なんの問題もありません。

難点はふたつ。「ラストの勝敗にカタルシスがない」ことと「高価&日本での入手困難」というところでしょう。プレイに広い場所が必要なのは、まぁ別として……。

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ラストバトルだ全員集合

拡張を含めると二桁万円くらいいくらしいけど、プレイする機会があったら逃すんじゃない! とだけ今回の記事では書いておこうかと思います。

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にぎやかになった盤上

 

小説サイト乱立時代とこれから

 小説投稿のサイトが増え、世間(というか主に運営側)で叫ばれることは「死にかけた出版業界の再生を」や「異世界転生ばかりではない小説の多様性を」等なのですが、それに全面的に賛成している人は少数であろうことは市場が証明しています。たとえ「ユーザー(読者&作家)を大事にする」姿勢を示そうとも、何も起きないままでしょう。

 小説の投稿しやすさも読みやすさも、それによって生じる恩恵も、最終的に市場の拡大が目的であるならば、いわゆるコモディティ化を後押しする要素にしかなりません。結果として個性の無いサイトが並立し、多様性すら実現は不可能であることは誰でも予想できることでしょう。小説投稿サイトは、そのサイト内に読者を拘束することを是とします。それは悪ではないのですが、映画配信サイトの抱える問題の縮小版(つまりより悪い!)として「共通言語としての小説」が失われることが起こります。

 では「共通言語としての小説」が失われることの何が悪いのか? それは「レアではあるが確かに存在する人間の思考パターンが多数の人に知られなくなる」ことが起こるからです。生活している上で役に立たない思考や、隠しておくべき事柄などは、物語の形でしか認識されません。小説は低コストであるがゆえに近代ではパーソナルな物語を扱うことが可能なジャンルでしたが(国民小説のような機能は映画やテレビへ移行したこともあり)、それらが人々の目につかないところに行ってしまうのは損失でしょう。

 現状では、多くの出版人が国民小説を取り戻そうとしているようにしか見えず、投稿サイトもそのように使おうとしているようです。売れる小説をメディアミックスし、それによって「良心的な(出版人はそう思っているであろうという意味で)」作品を出版する。そのモデルが衰退しているのにそれを行おうとしているのは狂気ですし、なにより、そのスタイルが「売れる作品」に対して侮蔑的であることが、ライトノベルと文学の軋轢として表面化した歴史があります。

 では、それにどう抵抗したらいいのか? 「作家がパーソナルな内面を作品として提示し、そのサイト内でライフスタイルのモデルをまるごと提供する」ことにより、作家と読者のコミュニティを作ることが解決策であると私は考えます。作家個人が、読者に対し、いかに内面を表現したら良いかを示すことこそ、小説が生き残っていく鍵になるのだと思います。現状の「お文学」についての愚痴は、まぁ書かないでおくのがよいでしょう。

好きなことを選んでいるのに孤立してしまうこと

 久しぶりの更新になってしまったのは、小説を書いていたからで、まぁ本業といえば本業なのですが、合間にまた文章を書いているのは、不思議な感覚があります。

 それはそれとして、ネット配信の興行収入が映画館を抜いたそうで、隔世の感があります。劇場で見るほどでもない映画と連続ドラマの見方はほぼ決まったということなのでしょう。

 もちろん私もネット配信映画は見ているわけですが、見ていて感じるのは、実は画一性よりも多様性です。同じ配信チャンネルに登録している人は同じものを見る傾向があるに違いないと思っていたのですが、入ってみると「日本では誰が見るんだよ」というようなものが翻訳されて流されているのですね。ニッチなドキュメンタリーや、海外産(例えばベルギー!)の連続ドラマ、インドのアニメなどが一部未翻訳の部分までありながら揃っています。自分が好きなものだけ見ていれば、快適な配信環境になる一方、知人がたまたま自分のリストを見たりすると「なにこれ? わけわからん動画しか配信されてないの?」という反応になること間違いなしです。なお誰にも理解されないリストを作りたければ、アメリカの黒人スタンダップ・コメディを見まくれば(なぜか次々新作が来る)、ほぼ日本人に通うじないリストが出来上がるのですが、それはまぁどうでもいい話。ここでしたいのは、多様性とは孤独に直結するという話です。

 Twitter等のSNSでのフォローでも見るものを限定できることから「偶然の出会いによる成長(嫌な言葉だ!)がない」という意見は少し前からありましたが、配信ソフトの問題は、それとは少し違い「偶然の出会い」も配信ソフト側が演出してくれるという点にあります。GAFAGoogle,Apple,Facebook,Amazon)なんて言い方がされるわけですが、このGAFAはよく非難されている「規格が統一されていることによる世界征服」などは個人にとってはさしたる問題ではなく、むしろ否応なく自分が属しているクラスタを限定させられてしまうことです。ひとつしかクラスタに所属していない人もいないでしょうが、すべてが同じ所属という人はあまりいないはずで、必然、孤独が待っています。もちろんそれぞれのクラスタ内で話が通じるのだから、孤独ではないはずなのですが、後述の理由で起こる「欠落」こそが孤独を生むことになるでしょう。

 その「欠落」とは、「生活していく上で必要な情報が抜け落ちてしまう」ことです。
 まずは「ネット配信」で起こる現象を見てみましょう。ネット配信なのだから、「映画」を見るものと相場が決まっていますが、我々は「映画とはなにか」を映画を見ることから学んでいます。もし見ている映画が根本から異なる二者がいた場合「共通言語としての映画」を持っていないことになるのです。それどころか映画を知らない人も出てくるでしょう。ドキュメンタリー映画については、現在でもすでに見方を知らない人もいることと思います。

 これはどうでもいい話ではありません。例えば「日本の野生環境における外来種の知識」は、おそらくクラスタに属するニッチな知識のはずです。ですが、これを知らないことは犯罪に直結する知識の欠落なのです。他にも、「ワクチン接種の正しい知識」や「アルコール中毒に対する知識」、「ブラック企業からの逃げ方」など生活に必要な知識はどんどん増えているのに、我々はそれから孤立させられているのです。

 私の興味分野でも、小説サイトが次々立ち上がっています。これも構造上、ネット配信が生む孤独を加速するものです。まったく、困った時代に生きているものですが、過去より現在が良いには決まっていますので、「共通言語としての小説」がなくなったときの問題と、そこにどう対処していくべきかはこれから考えていこうかと思っています。

飛んでイスタンブール(ある世代は必ず言う)

 そういえば、割とボードゲームもやるブログなのでした。

というわけで、今回は名作『イスタンブール』。

イスタンブール 日本語版

イスタンブール 日本語版

 

 こちらは商人になり、品物を売買して最終的に速く宝石を手に入れた者が勝つというゲームです。

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ボードはきっちり4×4

ボードを歩き回り、労働者(というか徒弟?)を置いていくことでそこのアクションができるというシステムです。なおマーカーはこれなのですが……。

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同じ顔のオッサン

横から見ると、労働者は厚さが違います。あ、手作業で切ってるな!

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いちばん下の赤が明らかに分厚い

しかし、アバウトな割にはコンポーネントは豪華。荷車も仕掛けがありまして、空いている穴にはめ込むことで荷車の拡大を示しております。

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荷車をすべて拡大するプレイに挑む(なお効率最悪の模様)

コンポーネントとシステムがマッチしており、プレイ中の雰囲気は実に素晴らしく、商売の予定を立てていくのも楽しいなど、名作と呼ばれるに相応しいゲームです。ただプレイにおける「警察署」のルールが我々日本人には謎でして……。

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親族がブチ込まれております

親族が拘束されている警察署まで行くと、親族を労働者としてどこにでも配置でき、仕事ができます! しかし、他のプレイヤーがその親族コマと同じエリアに入ると「告発」できるんですね。親族コマはブタ箱逆戻り。で、馬鹿にできない金額のお金が告発したプレイヤーに入ります! いったい何を表現したシステムなんや。

というわけで、実に楽しいゲームなのですが、プレイして判明した、唯一にして最大の欠点があります。「一度プレイするとゲームに勝つための最短のムーブがひとつしかないことがわかる!」のです。ボードの配置はランダムにもできますので、同じ配置にめぐりあうことはそうそうないのですが、その場合でも基本はそう変わらず、全員が初見のボードでないとファーストプレイヤーが必勝となります。

しかし、ゲームを作る側は当然、そんなことには気づいており、拡張セットが発売されております。これを入れれば、別ルートで宝石を手に入れることが可能となり、ボードをランダム配置にした時、一発で最短ムーブがわかるということはなくなります。 

イスタンブール:コーヒーとお恵みを (Istanbul: Mocha & Baksheesh)

イスタンブール:コーヒーとお恵みを (Istanbul: Mocha & Baksheesh)

 
イスタンブール:書簡と証印 (Istanbul :Brief & Siegel)

イスタンブール:書簡と証印 (Istanbul :Brief & Siegel)

 

 ガチプレイにこだわりたい人は拡張を買いましょう。 

なお、アプリ版もありますので、気軽に楽しみたい人はそちらを手に入れるという方法もあります!

小説の読み そのさん

 小説が読めたからといって何になるのか?

 ある程度読める人間に聞けば「それは趣味に過ぎない」という結論が驚くほど速く出てくることでしょう。実際、ここで紹介した小説の読みは、小説が構築する世界を鑑賞するというものですから、それができようとできまいと生活にはほとんど影響はありません。まさに格ゲーをやり込みすぎた人だけが見る世界と同じで、小説を詳細に読み込むことは一部の人しか面白がらない行為です。ナボコフが大学で文学の講義を行った際のテキストを書き起こした本がありますが、これにジェイン・オースティン作品の舞台の地図やカフカ『変身』の虫と部屋の見取り図などが書かれています。そこまでして読むことが趣味以外のものであるとは思えません。

 しかし、こうした読み方ができる作品かどうかは、大きな意味を持ちます。それができるのは、文章により作品世界が構築されており、文意が明快で一意に決定するはずの文章がストーリーにより多義的になる、ような作品だからです。映画原作でなく、戯曲でなく、詩でもなく、そのどれでもあるという半端な存在である以上、小説が小説として読める条件は、上記のものになるはずです。

 それは私の小説観にすぎないかもしれませんし、人により様々な「小説でなくてはいけないこと」があるでしょうが、ともかく、小説を小説として読むことは、不確かで、それこそバグった瞬間にしか立ち上らないような、か弱く、はかない、そして趣味でしかないものです。私の見解に反対の人も、そこだけは同意を得られるものと思います。同時に、そのように「小説でなくてはいけないこと」を考えた時、その内実がなんであれ、それは“教訓読み・書き”にあっては実現できないことも同意をいただけるでしょう。

 もちろん、そのような小説のあり方と“教訓読み・書き”が共存できないわけではありません。それらは別のものであり、対立するものではないからです。ただし、“教訓読み・書き”の背後にある「実用的(売れる&キャッチー)であるべし」という呪縛は、それを対立ととらえてしまいがちです。「売れる≠文学的」のような考えは(あるいはその逆も)貧しいだけでなく、そもそも間違っています。

 この実用的であるべきという呪縛を乗り越え、趣味を趣味として維持するために、小説でなければいけない小説の数が増えることこそが、誰もが小説を書ける世の中になった今こそ必要とされているのでないか。私はそのように考えています。現状では、ですが。

小説の読み そのに

 前回からの続きになります。“教訓読み”ができた上で到達する次の段階の読み方、という話です。

 実は、人間は日常会話や、メール等での文章コミュニケーションにおいて、ある程度までなら状況を優先して話を読み取っています。そこにかなりの違和感がない限りは、多少間違ったことを言われても補正して理解できる能力があるわけです。「雨降ってる?」「外出たら死ぬかも」という会話があれば、外は豪雨である、と理解できますが、厳密に読むと話は通じていないですよね。問いかけを字義通りに読むと、これについての答えはイエスかノーしかない。答えも「死ぬほど」という慣用的比喩を知っており、会話者の関係が親しいという前提がないと成り立たない。この例でももうわかってもらえたと思いますが、これだけですでに二種類の読みが存在しています。会話が成立していないという読みと、会話の二人が親しい上に今は豪雨という読み。当然、高レベルな読みは後者ですが、きちんと小説を読むというのは、そういう一足飛びに理解してしまうような回路を遮断して読むことです。

 この説明で、そんな馬鹿な、と感じてしまう人のために、再び“教訓読み”の話をしましょう。一般に小説が教養とされるようになってから、文学作品はその教訓が要約される傾向にあります。『吾輩は猫である』は「動物の視点から人間の滑稽さを風刺した」ものと紹介されますし、カフカの『変身』は「人間が直面する不条理を明らかにした」もの、と教訓読みは教えてくれます。そういうまさに“教訓”と、先程の類推は同種のものだとお気づきになるでしょう。一般に頭が良いとされる読み方は、実際には文章に書かかれていないことを読み取っているのです。

 そして、前回述べたように、そういう読み方は当然できなければその先にはいけません。その上で、否が応でも発生してしまう教訓や憶測を排除して厳密に読む。一文一文、そのまま字義通りに読む。つまり、二度読むことになるわけです。そうすることで小説が構成している世界を自分だけのものとして見ることが可能になる。前々回で書いた“バグを出す読み方”ができるようになるのです。

 実例として小島信夫『馬』の冒頭を引用します。

 

 僕はくらがりの石段をのぼってきて何か堅いかたまりに躓き向脛を打ってよろけた。僕の家にこんな躓くはずのものは今朝出がけにはなかった。今朝出がけではなく、今まで三年何ヶ月のあいだにこんな障害物はなかった。これはいったい何であろうかと思ってさわって見ると、材木がうず高くつんであるのだ。それに手ざわりによるともうその材木には切りこみさえしてある。僕の家の敷地に主人である僕に断りもなしにいったい誰がこんな大きな荷物を置いて行ったのか。それにしても材木は家を建てるべき材料だから、誰かがこれで以て家を建てるにちがいない。家を建てるとすれば、ここから五粁も六粁もはなれたところに建てるはずはない。建築者はこの近所に住んでいるのか、住もうとする人にちがいはない。いったいその本人はどこの誰で、何のために僕の家の敷地に置かねばならないのか。

 

 これを読んでみましょう。まず完全に小説に慣れていない人の読みをしてみましょう。

「主人公が材木を自分の家の敷地に見つけた。なんのためだろう?」

 この読みでしょう。そのくらいの読みでもストーリーを楽しむことはできます。では、次に教訓読みをしてみましょう。

「主人公は材木を家の敷地に見つけ、そのせいで自分を中心とした世界が脅かされるのを感じている。建築や家というものにこだわりすぎているし、自分が主人であることにわざわざ言及していることからそうわかる。さらに現実にはありえないであろうことが書かれているし、主人公の思考も不自然だ。これは家を自分と同一視して、それを侵害される恐怖を夢として不条理に描いたものだろう」

 なかなか読み取っている感じがします。そして、おそらく間違ってはいない。国語のテストなら満点かと思われます。これらの読みを踏まえた上で先に行きましょう。

 それでは、逐一読んでいきます。

「僕はくらがりの石段をのぼってきて何か堅いかたまりに躓き向脛を打ってよろけた……。石段を登れる程度には明るい? しかし、何か堅いかたまりにスネを打った。ということは、見えていない。慣れているから登れた? 確かに三年以上住んでいることはハッキリしている。だが、それなら明かりが設置されていないのはおかしい。さらに、手ざわりによるともうその材木には切りこみさえしてある、とある。彼はどうも材木についてわかりすぎているようだ。わざわざ明かりを無くしてあるのに材木について描写されているということは、字義通りに読むと、主人公は見えていないものを見ているということになる! それは後の家と主人についてのこだわりからもはっきりしてくる。そもそも石段もあるし、前兆なしでの材木の持ち込みはほぼ不可能ではないか。やはり、主人公は自ら見たいものを見ている。では、これは夢のようなものなのか? いや、夢だとは本文中に書いてはいない。とすれば、材木は(常識的には不可能だが)現実に持ち込まれ、主人公の敷地の内に何者かが家を建てようとしているのだ。そして、それは主人公の不安でもあり、望んでそう見ていることでもある。主人公はすでに一段目にして、自らを脅かし、崩壊させるものを実体としてハッキリと見てしまっているのだ!」

 いかにもねちっこく読めていると思います。重要なのは、文章に書いてあることはすべて字義通りにそう起こっているのであり、書いていないことを読んではいけないということです。「明かりが設置されていないのはおかしい」というのは類推ですが、それは「明かりについて書かれていない」ことを再確認しているわけです。

 二度読む必要があるというのもおわかりいただけたかと思います。類推が働いていなければこの冒頭をよくわからないことが起こっている。と感じられませんし、文章を逐一読めなくては「なんだ夢の話か」で終わってしまい、この小説を自らの目で味わうことができません。

 このように読むことで、小説は作者の意図を越えて“そこに存在するもの”として読めるわけです。小説は、すべてが作者の頭の中にあるのでなく、文章化されたことで、バグもあるプログラムとして走り出し、“バグ=そう読めてしまう”ことが作者の意図を越えて起こる。もちろん、作者がその後にバグを利用する、あるいはバグを意図的に起こす、さらには他の作家もバグを基本プログラムに組み込む、ということが小説業界では起こっているのです。

 すぐれた小説はこのように冒頭から世界そのものをあっという間に創造してしまいます。そして、それがしっかりと読めることが快感をもたらしてくれる。とはいえ、このような読み方に耐える小説は少数です。それは前回書いたように“教訓”を介さないと広く読まれるものにならないからです。“教訓”を絶対的に良いものだと思ってそれしか書かない有名作家もいますし、そもそも映像化される小説という流れにおいてこだわるべきはキャラクターやストーリーであり、それは小説の読み方とはそれほど関係のない技法です。

 読み手としても、このような読みを行うと一冊の読了にものすごく時間がかかることになります。さらにそのような読みができない小説がつまらなくなります。「ページをめくる手がとまらなくて一晩で読んだよ!」と熱く語る友人に「二度読む必要のないストーリーだけの小説ってことね」などと感じてしまうことは、明らかに良いことではないでしょう。

 次回、そのようなことを踏まえて小説の読みの周辺について語れたらと思います。

小説の読み そのいち

 先だっての日記が少しヒット数が多かったので、気を良くして続きでも書くかと思い立ったものの、前回の話はいわば終着点みたいなものであり、そこから先はこれからずっと考えていかねばならないことだったと気づいた次第です。

 そんなわけで、それより前段階、つまり「小説なんて読めばいいんだから読み方なんぞ必要ない」という人だったり「ラノベは小説じゃない。人生についての深い考察がないから」という人、あるいはそれらになんか反感はあるんだけど、うまいこと言えないあまり「ラノベも文学も等しく小説で楽しみ方もそれぞれ」みたいな結論に至っちゃう人に向けて、文学評論用語なんぞを使わずに、ざっと橋渡し的に“小説の読み方”について書いていければいいかな、と思いたちました。

 さらに、最近、私が自分の小説スタイルを見失い気味であり、自分が何を考えていたのか整理しておこうと思ったというのもあります。

 さて、まず前提として、小説の読み方は自由です。そりゃそうだ。でも、こんな話をする必要があるのは、小説を読んだ人はそれを題材にしてコミュニケーションすることもあるからなんですね。聖書を小説と言っている人もいましたが、聖書の読み方は……あんまり自由じゃないというか、自由に読むと各所から殴られたりするわけです。小説の読み方は自由なようで、やっぱり世間に縛られている。聖書みたいに大きな話でなくとも、なろう小説とラノベと一般小説なんてのはその分類に大きく世間のなんとなくの意見が反映され、差別的な言説も散見されるというあたりでわかってもらえるかと思います。

 ならば小説は世間が読むように読めばいいのではないか? それも実は間違いではありません。しかし、それだと小説を読まなくても感想にたどり着けることになります。そして、そういう読み方は割と世にあふれています。それらをここでは“教訓読み”と呼びましょう。世間では文学的な小説は役に立つものと考えられてり、どんな教訓を学び取れるかが大事であるというのが大勢だからです。ライトノベルをキャラクターで読んだり、なろう小説を異世界転生からの成功譚ととらえるのも、“教訓読み”です。これらの小説では教訓などなく、そのような売りで書かれたものと世間で思われているからです。この“教訓読み”はお気づきの通り、小説を読んだことにはなりません。世間の空気を読んだだけのことです。

 ただ、問題となってくるのは、この“教訓読み”に対応するかのように、“教訓書き”とでもいうべき小説が存在することも知っておかなくてはなりません。その時の社会にもの申すために書かれた小説は、歴史上多々あります。近年ではソビエト時代には労働英雄を称えるために書かれた小説があり、もっと最近の日本では中国韓国の政策と日本国内過激派を揶揄するために書かれた有名小説家の作品のようなものもあります。ライトノベルは政治的でないからといってこれから逃れられるものではありません。エンタメ小説では、流行の要素を列記するために書かれたものなどが、この“教訓書き”です。

 お気づきの通り“教訓読み”と“教訓書き”は、世間が変化すると変化していきます。が、読みはまだしも、書きは時代が変わってもうっかり残ってしまう。そうなると、もうどう読んでも理解できない小説が誕生してしまうことになります。時代の変化だけではありません。翻訳して国外に出されたなら、まったく別の理解のされ方をしてしまうものも出てくる。極端な例をあげれば北朝鮮の作品(映像作品しか簡単には見られませんが)などは、指導者を称える目的で作られたものの、我々は笑いと恐怖しか感じないわけです。

 ライトノベルとて同様の現象は起きており、作品にはその時の流行の要素が色濃く、しかもそれが先行ライトノベル作品へのアンサーとなっている場合が多々あるため、先行作品を知っているコミュニティでないと作品は受容できないという現象があります。
こう分析してみると“教訓読み・書き”は悪なのかと思ってしまいます。が、最初に述べた「小説を介してコミュニケートする」行為のためには絶対に必要なものだと理解しなくてはならないでしょう。批評家や思想家、あるいはそれに半端に影響されてしまった人は、特に“教訓書き”を軽蔑しがちです。しかし、それがないと誰に向けた文章なのかわからないし、逆に読める人間を絞っている作品になってしまうことになります。昨今では「ライトノベルのタイトルが編集者によって長文にされてしまう問題」や「作者がタイトルを伏せて『〇〇が××する話』としてTwitterにあげて宣伝する問題」などは、わかりやすさへの軽蔑と閉じたコミュニティへの嫌悪が根底にあると考えることもできます。

 逆に“教訓書き”では到達できない地点にあこがれる気持ちは忘れてはならないとも思います。時代や世相が移り変わっても誰にでも読めて感動できる小説。それに重きをおくのは自然なことです。ですが、そういう小説がもしあったとして、それを読むことは困難が伴います。先程書いたように誰にでも読める小説は誰に向けたものかわからないし、訓練しないと読めないからです。

 個人的には“教訓読み”は小説においては「さらっとできて当然」の読みだと考えています。その読みができた上で、それ以上の読み方を訓練しないといけない。そうでないとバグ出しのような読み方はできない。なんか大変そうですが、修行というよりゲームがうまくなる。先日の例えを使うなら格ゲーがうまくなる程度のニッチさと楽しさがある、と言い換えるとそんなに重大なことではありません。

 しばらく後、バグ出しをする読み方についてまとめたいと思います。