飛んでイスタンブール(ある世代は必ず言う)

 そういえば、割とボードゲームもやるブログなのでした。

というわけで、今回は名作『イスタンブール』。

イスタンブール 日本語版

イスタンブール 日本語版

 

 こちらは商人になり、品物を売買して最終的に速く宝石を手に入れた者が勝つというゲームです。

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ボードはきっちり4×4

ボードを歩き回り、労働者(というか徒弟?)を置いていくことでそこのアクションができるというシステムです。なおマーカーはこれなのですが……。

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同じ顔のオッサン

横から見ると、労働者は厚さが違います。あ、手作業で切ってるな!

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いちばん下の赤が明らかに分厚い

しかし、アバウトな割にはコンポーネントは豪華。荷車も仕掛けがありまして、空いている穴にはめ込むことで荷車の拡大を示しております。

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荷車をすべて拡大するプレイに挑む(なお効率最悪の模様)

コンポーネントとシステムがマッチしており、プレイ中の雰囲気は実に素晴らしく、商売の予定を立てていくのも楽しいなど、名作と呼ばれるに相応しいゲームです。ただプレイにおける「警察署」のルールが我々日本人には謎でして……。

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親族がブチ込まれております

親族が拘束されている警察署まで行くと、親族を労働者としてどこにでも配置でき、仕事ができます! しかし、他のプレイヤーがその親族コマと同じエリアに入ると「告発」できるんですね。親族コマはブタ箱逆戻り。で、馬鹿にできない金額のお金が告発したプレイヤーに入ります! いったい何を表現したシステムなんや。

というわけで、実に楽しいゲームなのですが、プレイして判明した、唯一にして最大の欠点があります。「一度プレイするとゲームに勝つための最短のムーブがひとつしかないことがわかる!」のです。ボードの配置はランダムにもできますので、同じ配置にめぐりあうことはそうそうないのですが、その場合でも基本はそう変わらず、全員が初見のボードでないとファーストプレイヤーが必勝となります。

しかし、ゲームを作る側は当然、そんなことには気づいており、拡張セットが発売されております。これを入れれば、別ルートで宝石を手に入れることが可能となり、ボードをランダム配置にした時、一発で最短ムーブがわかるということはなくなります。 

イスタンブール:コーヒーとお恵みを (Istanbul: Mocha & Baksheesh)

イスタンブール:コーヒーとお恵みを (Istanbul: Mocha & Baksheesh)

 
イスタンブール:書簡と証印 (Istanbul :Brief & Siegel)

イスタンブール:書簡と証印 (Istanbul :Brief & Siegel)

 

 ガチプレイにこだわりたい人は拡張を買いましょう。 

なお、アプリ版もありますので、気軽に楽しみたい人はそちらを手に入れるという方法もあります!

小説の読み そのさん

 小説が読めたからといって何になるのか?

 ある程度読める人間に聞けば「それは趣味に過ぎない」という結論が驚くほど速く出てくることでしょう。実際、ここで紹介した小説の読みは、小説が構築する世界を鑑賞するというものですから、それができようとできまいと生活にはほとんど影響はありません。まさに格ゲーをやり込みすぎた人だけが見る世界と同じで、小説を詳細に読み込むことは一部の人しか面白がらない行為です。ナボコフが大学で文学の講義を行った際のテキストを書き起こした本がありますが、これにジェイン・オースティン作品の舞台の地図やカフカ『変身』の虫と部屋の見取り図などが書かれています。そこまでして読むことが趣味以外のものであるとは思えません。

 しかし、こうした読み方ができる作品かどうかは、大きな意味を持ちます。それができるのは、文章により作品世界が構築されており、文意が明快で一意に決定するはずの文章がストーリーにより多義的になる、ような作品だからです。映画原作でなく、戯曲でなく、詩でもなく、そのどれでもあるという半端な存在である以上、小説が小説として読める条件は、上記のものになるはずです。

 それは私の小説観にすぎないかもしれませんし、人により様々な「小説でなくてはいけないこと」があるでしょうが、ともかく、小説を小説として読むことは、不確かで、それこそバグった瞬間にしか立ち上らないような、か弱く、はかない、そして趣味でしかないものです。私の見解に反対の人も、そこだけは同意を得られるものと思います。同時に、そのように「小説でなくてはいけないこと」を考えた時、その内実がなんであれ、それは“教訓読み・書き”にあっては実現できないことも同意をいただけるでしょう。

 もちろん、そのような小説のあり方と“教訓読み・書き”が共存できないわけではありません。それらは別のものであり、対立するものではないからです。ただし、“教訓読み・書き”の背後にある「実用的(売れる&キャッチー)であるべし」という呪縛は、それを対立ととらえてしまいがちです。「売れる≠文学的」のような考えは(あるいはその逆も)貧しいだけでなく、そもそも間違っています。

 この実用的であるべきという呪縛を乗り越え、趣味を趣味として維持するために、小説でなければいけない小説の数が増えることこそが、誰もが小説を書ける世の中になった今こそ必要とされているのでないか。私はそのように考えています。現状では、ですが。

小説の読み そのに

 前回からの続きになります。“教訓読み”ができた上で到達する次の段階の読み方、という話です。

 実は、人間は日常会話や、メール等での文章コミュニケーションにおいて、ある程度までなら状況を優先して話を読み取っています。そこにかなりの違和感がない限りは、多少間違ったことを言われても補正して理解できる能力があるわけです。「雨降ってる?」「外出たら死ぬかも」という会話があれば、外は豪雨である、と理解できますが、厳密に読むと話は通じていないですよね。問いかけを字義通りに読むと、これについての答えはイエスかノーしかない。答えも「死ぬほど」という慣用的比喩を知っており、会話者の関係が親しいという前提がないと成り立たない。この例でももうわかってもらえたと思いますが、これだけですでに二種類の読みが存在しています。会話が成立していないという読みと、会話の二人が親しい上に今は豪雨という読み。当然、高レベルな読みは後者ですが、きちんと小説を読むというのは、そういう一足飛びに理解してしまうような回路を遮断して読むことです。

 この説明で、そんな馬鹿な、と感じてしまう人のために、再び“教訓読み”の話をしましょう。一般に小説が教養とされるようになってから、文学作品はその教訓が要約される傾向にあります。『吾輩は猫である』は「動物の視点から人間の滑稽さを風刺した」ものと紹介されますし、カフカの『変身』は「人間が直面する不条理を明らかにした」もの、と教訓読みは教えてくれます。そういうまさに“教訓”と、先程の類推は同種のものだとお気づきになるでしょう。一般に頭が良いとされる読み方は、実際には文章に書かかれていないことを読み取っているのです。

 そして、前回述べたように、そういう読み方は当然できなければその先にはいけません。その上で、否が応でも発生してしまう教訓や憶測を排除して厳密に読む。一文一文、そのまま字義通りに読む。つまり、二度読むことになるわけです。そうすることで小説が構成している世界を自分だけのものとして見ることが可能になる。前々回で書いた“バグを出す読み方”ができるようになるのです。

 実例として小島信夫『馬』の冒頭を引用します。

 

 僕はくらがりの石段をのぼってきて何か堅いかたまりに躓き向脛を打ってよろけた。僕の家にこんな躓くはずのものは今朝出がけにはなかった。今朝出がけではなく、今まで三年何ヶ月のあいだにこんな障害物はなかった。これはいったい何であろうかと思ってさわって見ると、材木がうず高くつんであるのだ。それに手ざわりによるともうその材木には切りこみさえしてある。僕の家の敷地に主人である僕に断りもなしにいったい誰がこんな大きな荷物を置いて行ったのか。それにしても材木は家を建てるべき材料だから、誰かがこれで以て家を建てるにちがいない。家を建てるとすれば、ここから五粁も六粁もはなれたところに建てるはずはない。建築者はこの近所に住んでいるのか、住もうとする人にちがいはない。いったいその本人はどこの誰で、何のために僕の家の敷地に置かねばならないのか。

 

 これを読んでみましょう。まず完全に小説に慣れていない人の読みをしてみましょう。

「主人公が材木を自分の家の敷地に見つけた。なんのためだろう?」

 この読みでしょう。そのくらいの読みでもストーリーを楽しむことはできます。では、次に教訓読みをしてみましょう。

「主人公は材木を家の敷地に見つけ、そのせいで自分を中心とした世界が脅かされるのを感じている。建築や家というものにこだわりすぎているし、自分が主人であることにわざわざ言及していることからそうわかる。さらに現実にはありえないであろうことが書かれているし、主人公の思考も不自然だ。これは家を自分と同一視して、それを侵害される恐怖を夢として不条理に描いたものだろう」

 なかなか読み取っている感じがします。そして、おそらく間違ってはいない。国語のテストなら満点かと思われます。これらの読みを踏まえた上で先に行きましょう。

 それでは、逐一読んでいきます。

「僕はくらがりの石段をのぼってきて何か堅いかたまりに躓き向脛を打ってよろけた……。石段を登れる程度には明るい? しかし、何か堅いかたまりにスネを打った。ということは、見えていない。慣れているから登れた? 確かに三年以上住んでいることはハッキリしている。だが、それなら明かりが設置されていないのはおかしい。さらに、手ざわりによるともうその材木には切りこみさえしてある、とある。彼はどうも材木についてわかりすぎているようだ。わざわざ明かりを無くしてあるのに材木について描写されているということは、字義通りに読むと、主人公は見えていないものを見ているということになる! それは後の家と主人についてのこだわりからもはっきりしてくる。そもそも石段もあるし、前兆なしでの材木の持ち込みはほぼ不可能ではないか。やはり、主人公は自ら見たいものを見ている。では、これは夢のようなものなのか? いや、夢だとは本文中に書いてはいない。とすれば、材木は(常識的には不可能だが)現実に持ち込まれ、主人公の敷地の内に何者かが家を建てようとしているのだ。そして、それは主人公の不安でもあり、望んでそう見ていることでもある。主人公はすでに一段目にして、自らを脅かし、崩壊させるものを実体としてハッキリと見てしまっているのだ!」

 いかにもねちっこく読めていると思います。重要なのは、文章に書いてあることはすべて字義通りにそう起こっているのであり、書いていないことを読んではいけないということです。「明かりが設置されていないのはおかしい」というのは類推ですが、それは「明かりについて書かれていない」ことを再確認しているわけです。

 二度読む必要があるというのもおわかりいただけたかと思います。類推が働いていなければこの冒頭をよくわからないことが起こっている。と感じられませんし、文章を逐一読めなくては「なんだ夢の話か」で終わってしまい、この小説を自らの目で味わうことができません。

 このように読むことで、小説は作者の意図を越えて“そこに存在するもの”として読めるわけです。小説は、すべてが作者の頭の中にあるのでなく、文章化されたことで、バグもあるプログラムとして走り出し、“バグ=そう読めてしまう”ことが作者の意図を越えて起こる。もちろん、作者がその後にバグを利用する、あるいはバグを意図的に起こす、さらには他の作家もバグを基本プログラムに組み込む、ということが小説業界では起こっているのです。

 すぐれた小説はこのように冒頭から世界そのものをあっという間に創造してしまいます。そして、それがしっかりと読めることが快感をもたらしてくれる。とはいえ、このような読み方に耐える小説は少数です。それは前回書いたように“教訓”を介さないと広く読まれるものにならないからです。“教訓”を絶対的に良いものだと思ってそれしか書かない有名作家もいますし、そもそも映像化される小説という流れにおいてこだわるべきはキャラクターやストーリーであり、それは小説の読み方とはそれほど関係のない技法です。

 読み手としても、このような読みを行うと一冊の読了にものすごく時間がかかることになります。さらにそのような読みができない小説がつまらなくなります。「ページをめくる手がとまらなくて一晩で読んだよ!」と熱く語る友人に「二度読む必要のないストーリーだけの小説ってことね」などと感じてしまうことは、明らかに良いことではないでしょう。

 次回、そのようなことを踏まえて小説の読みの周辺について語れたらと思います。

小説の読み そのいち

 先だっての日記が少しヒット数が多かったので、気を良くして続きでも書くかと思い立ったものの、前回の話はいわば終着点みたいなものであり、そこから先はこれからずっと考えていかねばならないことだったと気づいた次第です。

 そんなわけで、それより前段階、つまり「小説なんて読めばいいんだから読み方なんぞ必要ない」という人だったり「ラノベは小説じゃない。人生についての深い考察がないから」という人、あるいはそれらになんか反感はあるんだけど、うまいこと言えないあまり「ラノベも文学も等しく小説で楽しみ方もそれぞれ」みたいな結論に至っちゃう人に向けて、文学評論用語なんぞを使わずに、ざっと橋渡し的に“小説の読み方”について書いていければいいかな、と思いたちました。

 さらに、最近、私が自分の小説スタイルを見失い気味であり、自分が何を考えていたのか整理しておこうと思ったというのもあります。

 さて、まず前提として、小説の読み方は自由です。そりゃそうだ。でも、こんな話をする必要があるのは、小説を読んだ人はそれを題材にしてコミュニケーションすることもあるからなんですね。聖書を小説と言っている人もいましたが、聖書の読み方は……あんまり自由じゃないというか、自由に読むと各所から殴られたりするわけです。小説の読み方は自由なようで、やっぱり世間に縛られている。聖書みたいに大きな話でなくとも、なろう小説とラノベと一般小説なんてのはその分類に大きく世間のなんとなくの意見が反映され、差別的な言説も散見されるというあたりでわかってもらえるかと思います。

 ならば小説は世間が読むように読めばいいのではないか? それも実は間違いではありません。しかし、それだと小説を読まなくても感想にたどり着けることになります。そして、そういう読み方は割と世にあふれています。それらをここでは“教訓読み”と呼びましょう。世間では文学的な小説は役に立つものと考えられてり、どんな教訓を学び取れるかが大事であるというのが大勢だからです。ライトノベルをキャラクターで読んだり、なろう小説を異世界転生からの成功譚ととらえるのも、“教訓読み”です。これらの小説では教訓などなく、そのような売りで書かれたものと世間で思われているからです。この“教訓読み”はお気づきの通り、小説を読んだことにはなりません。世間の空気を読んだだけのことです。

 ただ、問題となってくるのは、この“教訓読み”に対応するかのように、“教訓書き”とでもいうべき小説が存在することも知っておかなくてはなりません。その時の社会にもの申すために書かれた小説は、歴史上多々あります。近年ではソビエト時代には労働英雄を称えるために書かれた小説があり、もっと最近の日本では中国韓国の政策と日本国内過激派を揶揄するために書かれた有名小説家の作品のようなものもあります。ライトノベルは政治的でないからといってこれから逃れられるものではありません。エンタメ小説では、流行の要素を列記するために書かれたものなどが、この“教訓書き”です。

 お気づきの通り“教訓読み”と“教訓書き”は、世間が変化すると変化していきます。が、読みはまだしも、書きは時代が変わってもうっかり残ってしまう。そうなると、もうどう読んでも理解できない小説が誕生してしまうことになります。時代の変化だけではありません。翻訳して国外に出されたなら、まったく別の理解のされ方をしてしまうものも出てくる。極端な例をあげれば北朝鮮の作品(映像作品しか簡単には見られませんが)などは、指導者を称える目的で作られたものの、我々は笑いと恐怖しか感じないわけです。

 ライトノベルとて同様の現象は起きており、作品にはその時の流行の要素が色濃く、しかもそれが先行ライトノベル作品へのアンサーとなっている場合が多々あるため、先行作品を知っているコミュニティでないと作品は受容できないという現象があります。
こう分析してみると“教訓読み・書き”は悪なのかと思ってしまいます。が、最初に述べた「小説を介してコミュニケートする」行為のためには絶対に必要なものだと理解しなくてはならないでしょう。批評家や思想家、あるいはそれに半端に影響されてしまった人は、特に“教訓書き”を軽蔑しがちです。しかし、それがないと誰に向けた文章なのかわからないし、逆に読める人間を絞っている作品になってしまうことになります。昨今では「ライトノベルのタイトルが編集者によって長文にされてしまう問題」や「作者がタイトルを伏せて『〇〇が××する話』としてTwitterにあげて宣伝する問題」などは、わかりやすさへの軽蔑と閉じたコミュニティへの嫌悪が根底にあると考えることもできます。

 逆に“教訓書き”では到達できない地点にあこがれる気持ちは忘れてはならないとも思います。時代や世相が移り変わっても誰にでも読めて感動できる小説。それに重きをおくのは自然なことです。ですが、そういう小説がもしあったとして、それを読むことは困難が伴います。先程書いたように誰にでも読める小説は誰に向けたものかわからないし、訓練しないと読めないからです。

 個人的には“教訓読み”は小説においては「さらっとできて当然」の読みだと考えています。その読みができた上で、それ以上の読み方を訓練しないといけない。そうでないとバグ出しのような読み方はできない。なんか大変そうですが、修行というよりゲームがうまくなる。先日の例えを使うなら格ゲーがうまくなる程度のニッチさと楽しさがある、と言い換えるとそんなに重大なことではありません。

 しばらく後、バグ出しをする読み方についてまとめたいと思います。

小説を読むこと

news.denfaminicogamer.jp

 多少突飛な話であるものの、思いついたので軽く書いておくかと思いたちました。

 というのも上記記事を読んで、「これが本来の小説の読み方ではないか?」と思ったからなんですよ、これが。

 一発で「そうか!」とは理解されないでしょうから、順を追って書く……ことも難しいのだけれども、なんとか絞り出してみると、一般に小説を読むのは物語を楽しみ、全体の雰囲気を味わうものです。もちろん格ゲー『北斗の拳』の例であれば、普通に対戦することがこれにあたることになります。ではバグ出しとは小説のあらを探すことかというと、そうではなく、記事中にある「このバグを使用した『北斗の拳』は自分しか見ていない(大意)」という感覚です。

 世の中には無茶苦茶長い小説があります。有名なところだと『失われた時を求めて』。これは購入した人の中で通読した人の率(複数巻ある場合最後まで購入していない率も高い)がかなり少ないであろう小説なのですが、通読した人も「読んだ」とは言えない現象が起きる本でもあります。研究本も多数出ているのですが、それによると(自分も通読組ではないので)一読して意味のわからないシーンが散見され、日本の研究者の間でも謎とされていたりする部分があるそうなのです。つまりそこに疑問を持たなかったということは、「読めなかった」ってことになるわけですね。なお、モデルになった現地に行くと疑問が疑問でなかったこともわかるそうです。つまり現地で特定の時間や場所だとその謎現象がそのとおりに見えるんだそうな。

 ええと、なんの話でしたっけ? そう、つまり偶発的であれ(『失われた時を求めて』などはこれ)、意図的であれ(トマス・ピンチョン作品などはこれ)、かつて書かれた大作小説は、読者が困惑しつつ自分だけの世界を見ることができるように書かれている……というのが私の主張、というか気づきだったのです。

 思えば傑作と言われる小説は短編であっても“バグって”いる。カフカ然り、芥川然り。そして、それは書き手の人格を超えて記述したものがただプログラムのように作用するという性質により起こる(力量があっても思い通りにバグるまで修正を繰り返すのもプログラム同様)。ただ、北斗のバグ出しにたどり着けるものが少数であるように、書き手が意図しなかった景色までたどり着ける読者も少ない。

 そういうことをこの記事から読み取りましたと記しておきます。

最近考えていること

 新年のご挨拶から一ヶ月が経過した今日このごろです。一月も書いていないと、はてなブログがメールで煽ってくると知りました。いらん機能ですね……。年始は真面目に仕事をしていたばかりかインフルエンザにかかってしまい、更新できなかったという次第です。

 さて、最近考えているのは……というか、以前からのもので継続中なのですが「人は人文分野で人類がこれまで考えていなかったようなことを考えうるのか?」という自分には見つかっていないながら、どこかに答えがあるかもしれないわりとバカバカしい感じのことです。

 というのも、情報商材屋の人々が会社を辞めて起業するためのサロンなどといって金を集め、その実、起業と言ってもネットアフェリエイトをやれ、というだけであったり、落合陽一氏が自分の知らない分野について不用意なことを言って、別になんでも知ってる風なポーズをとることだけが上手な人だとわかったりなどが昨年末から立て続けにあり、それ自体は以前からある光景ではあるものの、それに騙される人がいるから成り立っている古来からの商売であることだけは再確認できたという次第で、その騙される心理自体は自分にも結構強くあるな、と思ったということから、上記のような考えを持ったというわけです。

 騙される心理とは「何か新しい情報を知ることで次のステージに行けるのだ」と期待する心だ、と私は分析しています。何か世間の大半の人が知らぬ新情報があり、それを知ることで今まで思っても見なかった方法で稼げる。そう考えているから、サロンに入って金を吸われるわけですし、AIの進化で人類の未来が拓けると信じるからこそ、それに順応することで良き未来がやってくると唱える人を天才だと崇拝する空気が醸成される。そういう心理です。

 だからこそ「本当にみんなが知らない情報はあるのか?」と「情報があるとして何が変わるのか」そして、それ以前に皆が期待してしまっているあること、すなわち「誰も考えつかなかったことを考える超人はいるのか?」が問題になってくるのだと思います。

 自然科学においては、それはもちろんあるとしか言えません。新素材やその加工技術などは確かに新しく生み出され、生活を変えてきました。

 しかし、人文分野についてはどうなのか? 新発見により世界が変わったということは無いように思うのです。すでにあることが記述されることには大きな意義があるとは思いますが。

 というわけで、超人思想を否定する話であるような、そうでないような話でした。

新年のご挨拶。そして、十分も経たずに分かる水城正太郎

 あけましておめでとうございます。本年もよろしく。

 特に何事もなく過ごしてしまった旧年、今年の抱負は少し情報発信をできるようにならないといかんよね、というところにしようかと思っております。

 ある程度は人間というか人格がコンテンツ化しないと生きていけない商売ながら、作家との外交はあまりなく、ネット小説の流れにも乗っておらず、自己紹介が下手を通り越して嫌い、という具合ではいかんだろうと思いたちました。

 さて、手始めにサクッと自身のキャラクターについて語っていくと、以下のようになります。

「十分も経たずに分かる水城正太郎

 作家。デビューは2001年。売れる売れないよりも無茶なことをしているか? を重視していると最近気づき始めた次第。作風はギャグとパロディと不条理。そのせいで読者から「作者にわかってないと思われるのが嫌で感想を公言できない」と複数回言われたことがあるのが悩み。ボドゲとオカルトのウォッチャー。

 こんなところです。ご購入できる&すぐ読める作品の紹介は下記に。それでは今年も頑張ってまいりましょう。

『道化か毒か錬金術

道化か毒か錬金術 (HJ文庫)

道化か毒か錬金術 (HJ文庫)

 

  近刊。金持ち貴族の錬金術師と漁色家女スパイとのバディもの。『パタリロ』やら『エロイカより愛を込めて』やらの影響を多分に受けた現代スパイ物のパロディ・ギャグ。本ブログでも宣伝多数なのでそちらもご参考に。

 

『吸血王の雄々しき竜狩りとそれにまつわるいくつかの物語』

 「最近北欧で発見された1910年に書かれた小説の翻訳(解説付き)」というわけのわからん体裁で書かれたメルヴィルの『白鯨』パスティーシュ。とはいえトラックで車列を組んで龍を狩るという素直な冒険ファンタジーです。中断中ながら長編の分量は書かれています。個人的にはもうちょい評価されてもいいんではないかと思っているものの、作業時間が長かったことによる思い込みかも。

 

『ふたたびカークブライド・ホテルより』

kakuyomu.jp

 大麻をずっとパイプで吸っている主人公が怪異の起こる異国の街に流れ着いてぼんやり過ごす不条理物。連作短編となっております。このタイプのものがずっと書き続けられる人生にならんものかとは思っています。