発売前の『AQUA』をプレイ!

これがパッケージ

 ホビージャパン社様にて新作をプレイする機会に恵まれましたよ! 『AQUA』でございます! 2月発売のゲームです。せっかくですので、感想を書いて販促に繋げようかと。

 日本人なら誰もがラッセンと言ってしまうらしく、箱絵を見た瞬間に「ラッセン……ラッセン……」とささやきあう我々に「テストプレイヤーみんなそう言う」とのこと。懲りずに「エコ思想なら最高だな」と続けると、「エコゲーです!」と太鼓判。サンゴ礁で生態系を育てていくゲームとのことで、楽しくなりそう。

 六角形のタイルを一ターンに一回拾うというシステム。割と単純かと思いきや、カタツムリ(ではない)マーカーが戦略性を与えています。これはスタートプレイヤーマーカー。タイルの代わりにこれを拾うとそのターンではプレイが最後になりますが、次のターンにスタートプレイヤーというわけ。

これがスタートプレイヤーマーカーと初期ボード

 六角形を三分割したタイルに色が割り振られており、直感的に「これをつなげるんだなー」とわかります。同色で六角形にするとひとマスの生物がやってきます。紫だとヒトデ。「サンゴ礁の破壊者じゃん!」と海外で議論になったとかならなかったとか。

こうして並べてヒトデを召喚!

 問題はきっちり六角形を作らねばならないことで、はみ出してもそれは「サンゴ礁」という扱いになります。サンゴ礁は隣接した生物の点数をサンゴ礁分だけ余計に追加していいという効果。最後の点数を少し底上げしてくれます。

海のともだち。裏は絵が違う(効果はおなじ)

 生物がある程度固まって隣接したら、同型の巨大生物というか捕食者を召喚できます。これが点数がでかいので、基本的にはこれを早く集めるのがゲームの目的。タイルが重なっており、下に行くほど点数が下がっていきます。早いもの勝ちなのだ。

 このゲームで面白い点は、まず初期タイルが微妙に違っていること。これにより全プレイヤーが同じタイルを欲しがることが避けられており、楽しく独自のサンゴ礁づくりが目指せます。しかし、争いがないかというとそんなことがないのが面白いところ。この手のゲームにしては珍しく、他人への妨害がとても有効です! ターンに一回しか行動できないゲームは、多くの場合他人を妨害することに一手使うとめちゃくちゃ不利になります。そりゃあ数少ない自分のターンを無駄にするのだから当然です。ですが、本作では複数の色を伸ばせるタイルを用意しておくこととスタートプレイヤーマーカーが取れることにより、「この一色をかっぱらってしまえばあいつはクジラを作れない!」と「あいつにはスタートプレイヤーをやらん!」が成立しやすくなっています。実際、早いうちにスタートプレイヤーを取ってしまうのは実に良い戦略であり、さらに最終的に同点になってしまった場合、先行側になっていたプレイヤーの勝利です。これは実に合理的で、実際、今回のプレイではトップが同点でした。「同点の場合は?」「先行の勝ちです」に「え?」となったものの、後になって考えてみれば「ギリギリ同点かどうかわからない最終ターン前に点数を伸ばすかスタートプレイヤーを取るか」というギャンブルを生み出すルールなのでした。

右の黄色が痛恨のミス。そちらに伸ばせなくなった。

 最終的に自分は負けた側だったのですが、思い返すとなんと二ターン目でルールを間違えて黄色をサンゴ礁にしてしまった(六角形があればはみ出しても生物を置けると思っていた)ことが敗因で、その後のプレイは大きくハズレていなかったことが判明。そう、なんとランダム性は各ターンに公開されるタイルのみであり、タイルが公開されてしまえばそのターンの最適解(全員が平等に点数を伸ばすor先行プレイヤーだけ点数が伸びる)が存在するタイプのゲームなのです! しかも長期的には乱数が平均化されていくので、最終ターンまで考えれば、実はランダム性ほぼなし! しかも「最初にタイルは一枚だけ抜いて最後まで使用しない」というルールもめちゃくちゃ合理的です。(おそらく)同一のタイルが存在しないので、一つ欠けていることで「完全記憶が可能な人間が混ざっていたとしても同じゲームにならない」のです!

 というわけで、実はこのゲーム「ファミリーで楽しくサンゴ礁を作ろう!」という層から「ゲームは強い人が勝つ競技性が至高」という人まで楽しめる凄まじい作品なのでした。欠点は点数計算を間違えがちなことくらいですが、最終的に全員で順番に見ていくことで公平さも保たれますので、ルールブックと突き合せれば問題なし! かなりのオススメです!

 

 

2023年総括

 例年のように本年の総括をしていこうかと思います。

 

世間的には……

 公的には先の日記に書いた通り、前年の問題が強化されてしまう一年となったようです。陰謀論者は政権に影響を与え、未熟で貧困な世界観を持つものが侵略や独裁を肯定するという傾向が世界的に見られるようになってしまいました。

 それらの解決が難しいことの原因として、陰謀論者や過激な思想を非難する者が、それとは逆側に極端な思想を持つようになってしまうということが挙げられるでしょう。極左と極右が殴り合っているという印象にどうしてもなってしまう。異常な陰謀論を見過ごせないということは、結局は陰謀論を馬鹿にしているということも正当な批判ではないという印象に拍車をかけてしまうようです。

 ただ先行きが暗いというわけではないでしょう。一般の人々が政治に興味がないという風潮もありますが、前述のことを考えれば政治が嫌われているというより、陰謀論や過激な思想、未熟で貧困な世界観や攻撃的な姿勢が嫌われているわけで、むしろ健全な人々が多数派であることが可視化されているという安心感もあります。

 来年は表面的な討論でなく、正当な選挙で正常な候補者が選ばれ、彼らが陰謀論の雑音を無視できる環境が整えられることになると良いなぁ、と思っています。

 

出版界的には……

 私的には書き手としてよりは読者として大転換期になったことを強く感じています。というのも男女観や暴力観が大きく変わっており、それが比較的年齢が上で変化についていけないと思われがちな自分でも実感できるほどになってきたということがあります。具体的には十年も経っていない作品でも、セクハラ・パワハラに類するジョークがあるものに「うわっ、辛い」と感じるようになっています。同様の感想を見かけることも多いので、昔の作品に「古いなー」と感じるのとはまた別の変化が起こっていると感じています。

 人によっては「ポリコレ疲れ」などと言っていたりもしますし、単純に主役をマイノリティにすげ替えたりあえて不細工に撮影するなどには自分も反対なのですが、創作における平等と暴力的コミュニケーションへの思索という側面は一般の人々の間で確実に深まっています。過激化する平等運動とはほぼ無関係に転換が行われていることは非常に良いことでしょう。

 一方、書き手としてはそこに失敗すると不人気という形で即座に反映されてしまうという点で大いに悩ましいところです。これから何がスタンダードになるのかはわからないですので、次の成功者が時代を作っていくという当たり前のことを予測する以外のことはできそうにありません。

 いわゆるゼロ年代からオタク的な作品への一般層の嫌悪が減少し、今ではそのような絵柄や世界観を街で普通に見かけるまでに変化しましたが、当のゼロ年代作品は陳腐化を通り越して古い悪癖のように見えています。時代がさらに過ぎて再評価されるまでは、その年代の作品は肩身の狭い思いをしそうです。

 来年はなにか答えが見つかることを期待しつつ、今年のまとめにしようかと思います。

『グレートスプリット:華麗なる分配』をプレイ!

 さて、今作は不思議なプレイフィールで大型作品に匹敵する満足感を短時間で得られてしまうお得でお洒落なゲーム。『グレートスプリット:華麗なる分配』の紹介。

かなり素敵なパッケージ

 大型の箱で一見するとビッグゲームなのだけれど、実のところやることはひとつだけ。

このボードですべて管理できる

 ボードにあるコレクションと勲章を増やし、右に向かってマーカーを動かす。それによって点数が決まるだけ! 富豪のコレクション自慢大会というフレーバーになっております。で、どうやって右に動かすかというと、カードのトレードでこれを行うわけです。

分配! それでグレートスプリットなのね。

 配布されるカードをスプリッターと呼ばれる自分の無印のカードで分けてから左隣のプレイヤーに渡します。もらったプレイヤーは右を取るか左を取るか決めるだけ! 自分もカードを渡されるので選択しましょう。最終的な手札は左隣が選択しなかった方プラス右隣からもらった選択したカードとなります。カードに書かれているのは何をいくつ増やすかだけ。そのマーカーを右に動かしていきます。簡単!

全体ボード。富豪なのに決算がある。

 ターン数は全体ボードに書かれている数だけ。黄色のラインは決算で、その際に得点を増すことができます。美術品は相場が動いていきます。なんとも簡単!

 今作で面白いのはカードの還流。左隣に取らせない限り、同じカードが手元に残り続けるシステムになっていますので、伸ばしたい数値を手元に残すか、流して次に賭けるかが悩みどころ。そしてそもそも隣が思った通りの分割を選んでくれるとは限らない。全体にカードが還流してくれなければ左右のプレイヤーとともに沈んでいくばかりなので隣に損をさせる選択ばかりしても意味はありません。カードが奇数になる回では隣が多い枚数を選ぶだろうと分割(5なら3と2)しますが、思惑がすれ違うとものすごい空振りに。
 素晴らしいアートワークと言語依存のないボードはイタリアの作品であることをビシバシ感じさせてくれます。コンポーネントのおかげて重いゲームを楽しんだ満足感もありながら、プレイは慣れれば一時間もかからないでしょう。キャラクター性も少しあるので、そこがやりこみ要素になっています。点数も成功したプレイヤー同士ならばかなりの接戦。カード一枚、得点一点が勝敗を分ける熱さがあります。

 しかし、難点もちょっと見逃せないレベルで存在することも併記しなければなりません。それは得点計算が複雑なうえ、得点の増加がすべてセルフジャッジとならざるをえないところ。誤魔化すつもりなら簡単ですし、そうでなくても間違えることはかなりありそう。マーカーが小さくボードが長いので、注意しないと「動かしたっけ?」が多発。さらにコインを獲得した際に生ずる「なんでも二個動かしていい」は失敗しがちです。もっともこれはデジタル版なら解消される問題。ボードゲームアリーナに課金すれば大丈夫です!

 いくらデジタルで遊べるとはいえ、凝ったアートワークと隣にカードを渡すときに用いる封筒がもたらす独特のワクワク感は実体あってのものですので、気になった方は手に入れてみてください。

 

 

『CAT IN THE BOX』をプレイ!

 久方ぶりのボードゲーム関連更新です。今回は『CAT IN THE BOX』をプレイしました。

トリックテイキングの傑作!

 これはいわゆるトリックテイキングと呼ばれる種類のカードゲームです。一般的にはWindowsに入っていたゲーム『ハーツ』を想像してもらえれば良いかと思います。プレイヤー全員がカードを順番に一枚ずつ出していきます。前のプレイヤーが出したトランプのスートを手札に持っていたら出さなければならず、全員が出し終わったら数字の大小を比べて場にあるカードを誰が取るか決めます。全員のカードがなくなった時点で、何回勝ったかで点数が決まる。そういうタイプのゲームです。

 本作は日本産のゲームながら海外で評判とのことで、これから古典になっていく傑作でしょう。特色はタイトルにある「箱に入った猫」のフレーバーを活かした奇妙なルール。なんとカードを出すまで何色のカード(スート)かは決定していないのです!

 そうシュレディンガーの猫をパロディにしているわけです。カードには数字しか書かれておらず、出したとき色を宣言することで「事象を確定」していくルールとなっています。手札にあるカードが何色なのかは出すまで自分でもわからない……。

確定した色を記録しておくボード

 カードがなんであるのか確定したら、共有ボードにある色と数字に自分のチップを置きます。このカードは二枚存在してはいけないことになります。個人ボードの四辺にカードを置くことで色を宣言するのですが、各色にチップが置かれていることに注目してください。なんといかなる時でも「自分はその色を持っていない!」と宣言してチップを外せるのです。自分はその後、その色のカードを出せないということになります。

 中央の数字は「自分がこのゲームで何トリック取れるか」の宣言を1~3までの数字で行います。これが正解したならば、共有ボードで自分のチップが並んだ数字分の点数を追加でもらえます。

我がカードは何色なんだ……。

 最後の特殊なルールは「パラドックス」これはいわゆるドボン、あるいはバースト。場には同じカードが存在しないという原則があり、かつ特定の色を持っていないと宣言できるということは、どこかで手札からカードが出せない瞬間がありえるわけです。そうなったプレイヤーはパラドックスを引き起こした事となり、そこでその回のゲームは強制終了! 後のプレイヤーもカードを出せないことになります。

 赤は他の色にかならず勝つ色となっており、序盤で赤を宣言するとほぼ勝てるのですが、それは他の色を持っていないと宣言しなければならないことでもあり、後半にパラドックスを引き起こす確率をあげてしまう。個人では赤を出すタイミングを量りつつ、全体では他人にパラドックスを起こさせるべく相手の手札を予測し、かつ配布時と最終周回時に一枚ずつカードが除外されるので考えて宣言を行わなくてはならないと考えることが多く、まったく同じ展開になることはありません。

 このように飽きることなく何回も遊べ、上手なプレイはわからないものの下手なプレイは確実にわかり、遡ってプレイを見返してみると何周回前の誰かのプレイのせいで流れが変わったか判明する……そんな熱いゲームとなっています。コンポーネントもコンパクトでルールも簡単。言語依存もボード上にはまったくないなど非常にオススメのゲームとなっております。バイナウ!

 

 

都市伝説という社会問題

都市伝説という社会問題

 

 近年になって浮上してきた問題にいわゆるデマというものがあります。正確にはもっと以前から存在したわけですが、デマの流れるルートにSNSYou Tube等が加わったことで可視化される率が高まったということなのでしょう。

 これらのデマのうち、いわゆる都市伝説と呼ばれるものの弊害は、それを信じる人々が善意から社会に害悪を与えようと行動することとして表面化してきました。反ワクチンなどは典型例で、ワクチンを接種しないことを家族に強制したり、接種会場を襲撃するなどに至る人々がいたことは記憶に新しいことでしょう。

 

可視化された問題

 反ワクチンで目立った活動家がいわゆる「Q」を名乗っていたこともあり、一般にも知られるようになってきましたが、いわゆる「Qアノン」系を陰謀論団体と呼ぶのは、その信条のベースに都市伝説(デマ)を据えているからです。

 信条のベースに明らかに都市伝説を据えている集団としては、代表的なものにもちろん本家Qアノンがあります。米国共和党のトランプ一派ということもできます。政策提言にディープステイトという言葉を盛り込み、自国政党の民主党に流された悪質なデマを事実とするなどして議会をストップさせるに至っています。

 他にも国内では参政党がありますし、地方議会には反ワクチンを公約に掲げた議員が幾人も当選しています。さらには右派、左派双方とも両極に振れた政党になるほど支持者にも議員にも陰謀論者が多数含まれていることが観測できます。

 現在、日本、海外、さらには右派、左派を問わず、信条のベースに都市伝説を含む団体が可視化されるのみならず、政治団体として力を持ってしまっている現状が世界中にあるわけです。

 

全体の数パーセントが目覚めることで……

 「人類全体の数パーセントが目覚めれば社会が変わる」とは陰謀論者やスピリチュアルの人々がよく口にする言葉です。彼らはアセンション(次元上昇)が起こるなど超常的な意味合いでそれを言っていますが、実際の選挙制度でも数パーセントが同じ動きをしてしまえば政権は変わってしまうことは見逃してはいけないでしょう。

 米共和党でもトランプ派の議員は少数ですが、投票数で過半数を獲得するために彼らの同意が必要になってしまっており、共和党は過激な主張を盛り込まざるを得なくなっています。右派と左派が拮抗する状況で大統領を選ぶような制度になっている国において「目覚めた」人が一定数を超えたなら陰謀論者が選ばれる可能性も高いということになります。

 現状で力を持っていないため見過ごされていますが、日本では首相経験者である鳩山由紀夫が熱心な陰謀論者です。このように陰謀論で世界が動いてしまうことは過去にもあったし、未来にも十分にありえると言えるでしょう。

 

陰謀論と都市伝説とオカルト

 これまで陰謀論と都市伝説をあえて混同して使用してきたのは、その境界が実に曖昧であるからです。語られている論そのものよりも受け取り方の違いが、エンタメとしての都市伝説と政治的陰謀論を分けるものであるという言い方ができるでしょう。

 それは論のもっともらしさで悪影響を測れないという問題を生んでいます。例えばマッドフラッド論などは、泥の洪水で超文明が沈められたというバカバカしいものですが、これを信じている人はなぜか多くの場合Qアノン系反ワクチンに接続しており、かなりの悪影響がある論なのです。

 グレートリセットやネサラゲサラなどは逆にストレートに悪影響のある論ですが、これはロスチャイルド陰謀論の枝葉としてエンタメとする向きもあります。

 ゲートウェイドラッグではないですが、パワースポットめぐりなどのスピリチュアルや、化学調味料が体に悪いなどの自然派、闇の世界政府存在論などの都市伝説、霊媒や悪魔などの軽いオカルトが入口でも、本気で信じ込んでしまえば陰謀論者になってしまうということは観察して分かる通りです。

 つまり、それらをエンタメとして扱っているYouTuberにも責任の一端はあるでしょう。あくまでエンタメとしての都市伝説を主張していようと、それを真実だと信じさせない工夫が必要であり、できる限り悪影響を及ぼさないような配信を心がけない限り、政治系デマを流すYouTuberとの差はないと言える状況になっているということになります。

 現に某都市伝説系YouTuberが収益化を止められたことを嘆く動画で、有名な反ウクライナ陰謀論者のチャンネルをBANしたYouTube運営を非難し、自分たちのしていることを「国際情勢について考える切っ掛けになるのだから無下に切り捨てるな」と語っていたことがありました。害のある陰謀論と自分たちとの切り分けについて深く考えていない証明とも言えるでしょう。

 怪談界隈もスピリチュアルと結びついていることは以前に書いた通りです。心霊スポットやパワースポット巡りくらいは大丈夫でも、霊媒師や占い師に高額を払うことや、終末予言、アセンションまでいくと陰謀論との接続可能性は非常に大きくなっています。霊が見えると主張しているYouTuberなどはもう片足を突っ込んでいると言えるでしょう。

 

正義の対極にあるもの

 陰謀論と政治の結びつきはもう見てきた通りなのですが、これは陰謀論にスケールが大きいものが多い(世界政府だの宇宙意思だの)ことと、基本的には弱者が一発逆転を夢見るための妄想であることから来る革命志向によるものです。

 卵が先か鶏が先かではないですが、多くのポピュリズム権威主義の研究では政権が権力奪取のためにこれを用いたという論調になっています。つまり、権力志向の政治家や軍人がおり、これが独裁者になるために大衆の陰謀論を利用したという図式です。

 この図式を描いてしまうのは、まがりなりにも政権を奪取する者なのだからそれまではまともであろうし、彼らの多くは選挙時に汚職の一掃などポピュリズム的公約を掲げているため、「大衆の不満をうまく利用したのであろう」、そしてなにより「大衆の大半は陰謀論を信じる程度には愚かであろう」というバイアスがかかっているからではないでしょうか。

 私は権力者に陰謀論を信じる素質があった、あるいは最初から陰謀論者であるという視点を排除してはならないと考えます。多くの人は直感的にそうは考えないでしょうし、自分が気に入らない相手を陰謀論者のように愚かだと断定してしまうことを恥だと思うでしょう。しかし、これは「相手が理性的な利害関係判断に基づいて行動している」という誤謬を招いてしまっているのではないでしょうか。

 ネットで一時流行り、現在でも信条にしている人が多い「正義の対極にあるのはもう一つの正義」という言葉があります。ですが、現実に陰謀論者を見てみれば、彼らが正義と信じているものの根拠が虚偽であるならまだましで、敵対勢力の殲滅が含まれていることさえあります。大きな対立がある場合、「互いに信じる正義のために」とか「利害関係のみで行動する」以外の行動規範があるとは信じないでしょうが、それは確実にあるのです。

 

陰謀論者との対話

 陰謀論者と対話ができないことを経験している人はそれなりにいるでしょう。身内にいたとて説得できないことは多く、たくさんの悲劇が生まれています。今年はそれが全般的で根源的な問題だと表面化した年だったと思います。

 我々は多くのポピュリストや活動家、さらにはドナルド・トランプ鳩山由紀夫の言葉を毎日目にしています。知性も地位も陰謀論者でないことを担保してくれません。あらゆる階層で、右派左派、差別反差別、宗教無宗教を問わず陰謀論は転がっています。陰謀論者との対話は必須なのです。

 しかし、陰謀論者とどう対話すべきかは、いまだ誰も達成していない古くて新しい問題なのではないでしょうか。遡って考えれば、それこそ陰謀論者が絶対悪と規定しているナチス陰謀論者が選挙により政権を握った実例ですし、現在ではロシアや中国の行動を道理や国の利益で説得することを達成できていません。

 頑なに世俗化しない宗教も同様の構造を内包しています。古来からの解決できない問題が陰謀論として噴出したのが現代ということなのでしょう。

 

大衆は賢いと信じる

 とはいえ喫緊の陰謀論への対処は個々人が陰謀論に陥らないことくらいしかないでしょう。オカルト関係の趣味人たちには自制が求められますし、政治や社会問題についてはデマを鵜呑みにしない熟慮が求められます。

 まして、この話を読んで「愚かな陰謀論者が世の中にたくさんいる」という考えになってしまったなら、それこそが陰謀論です。

 陰謀論は「真実を知る少数派と騙されている多数派」や「今後訪れるある瞬間にすべてが終わり生まれ変わる」という構造を持っており、今現在苦しんでいる者たちへの福音として機能しています。その特性を持つ政治運動を避け、また自分がその構造を持つ考えに染まらないように動くこと。そのためには、まず大衆の賢さを信じることこそが誰にとっても必要になってくる心構えなのではないでしょうか。そうでないと「有力者がデマを利用しているのでなく自身も信じ込んでいる可能性を見逃してしまう」か「一部支持者の過激な要望に政策を乗っ取られる」ことになってしまうのですから。

 いずれにせよ、世界が陰謀論で動くことが減っていくように願います。

怪談界隈、そろそろやばいかなー

 以前からオカルトの話題にはちょくちょく触れていて、自分でも実話怪談ライトノベルを書いたことがある身であることは大前提としまして、私、もちろん黎明期より怪談を楽しんでまいりました。あなたの知らない世界にはじまり、稲川淳二のライブ、サイキック青年団新耳袋などその筋は一通り嗜んでおります。もちろん最近ではYou Tubeのいわゆる怪談界隈をヘビロテしており、毎回拝見しているくらいのファンになった怪談師もいるほどです。

 しかし、配信での怪談師がファンを呼ぶにつれ、以前からオカルト関係バラエティが抱えていた種々の問題があらためて顕著になってきたばかりか、新たな問題までも生み出されてしまったことで、「あー、そろそろここにもコンプラ整備の問題がきたなー」と感じるようになってきました。

 そこであまり更新しないブログですが、今年のまとめにも繋がる大問題として、この怪談界隈の問題をわかるひとにはわかるけど実名は出さない方針で書いていこうと思います。

 

まず怪談というのは……

 まず問題に通底している事柄をひとつあげておかねばなりません。幽霊と言ったら大抵の人はだいたいのイメージを描くことができますよね。「死者の魂である」「成仏していない」「人間に取り付く」エトセトラ……。しかし、この幽霊のイメージがある程度統一されていることが大問題なのです。「なぜならそれが巨大宗教であるから」です。例えば、怪談でお祓いには神職の助けを借りるのが常道ですが、これには神道も仏教もキリスト教も登場します。なんというか霊能者というのがいて、これが幽霊を取り扱える、という了解がある。これこそまさに全世界に渡る素朴シャーマニズム。さらに素朴なだけでなく「成仏」「悪霊」「地縛霊」などは“教義”と呼べるレベルにまで洗練されており、なぜかかなりの人がそれを体系的に理解しているという不思議な状況があります。

 基本、幽霊を怖がるから大方の怪談は恐いわけです。「幽霊がいない」と言っている人でも、前述の“教義”である幽霊のルールは知っています。この素朴シャーマニズムが浸透している証です。しかし、この素朴シャーマニズムが社会の前景に出てくると非常にまずいわけです。現実世界でシャーマンが一大権力を握ってしまったら暮らしはめちゃくちゃなことになってしまうでしょう。「古代や田舎ではシャーマニズムを信じる人々ばかりだった」と思ってしまう人が多いですが、実際はどの時代でも信じていない人がきっちり社会を作っていたわけで、霊魂を否定する識者や市井の人の逸話は過去に日記や物語に山ほど出てきます。

 そもそも「信じる」ということが微妙な問題でして、“教義”をかなり強く信じている人でも、実社会でシャーマンが我欲のために無法を働いたなら「呪いなんぞ知るか!」ときっちり断罪することでしょう(そのために呪い避けのシステムがあるのはシャーマニズム社会ではあたりまえでもあります)。人間、信じたり信じなかったりする状態が普通なわけで、怪談もこの心の働きがあるから楽しいわけです。「聞いている間だけは信じて怖がっている」のが大半の人であるとは断言してもいいでしょう。

 

怪談におけるコンプラとは

 前段のことが大問題というのは、怪談が「聞いている間だけは信じて怖がっている」楽しみ方をするために、語り手側がリアリティを非常に重視しているからです。最近の怪談は実話怪談と呼ばれるものが一般的です。嘘であると感じさせる情報を与えないためにつけられた名称ですね。そこには様々な技術があります。まず「体験した人から話を聞いた」スタイルであることは絶対として、本当に聞き取りをした話しか怪談にしない怪談師さえいます。話に矛盾があったなら聞き取りの最中でも突っ込んで質問することを推奨するなどのテクニックもあるほどです。体験したと言って噂話を語られた場合、それは都市伝説枠に入れてしまう。リアリティのために技術があるわけです。

 しかし、このリアリティ重視の姿勢は観客側にも楽しむスタイルを限定するものでもあります。「怪談の真偽をしつこく追求しない」上に「実生活に影響が出る範囲で素朴シャーマニズムの教義を信じない」人でないと社会に悪影響が出てしまうわけです。
 怪談界隈の内部でだけ「これは悪霊ですねぇ」とか「稲荷信仰の土地だから狐憑きかも」とか語りながら、実生活ではまるっきりそんなことを忘れて過ごす人でないと社会と齟齬が出てしまう。「霊が見える」と始終言っている人や、絶対に神社に近寄らない人、特定の除霊儀式をしないと一日を始められない人などを想像してもらえれば理解できると思います。しかも、それでいて特定宗教の教団に入っていないとなれば、単なる厄介な人です。

 つまり、怪談におけるコンプラとは「我々はごっこ遊びをしています」と正式に宣言し「話芸を競っています」と社会への有用性をアピールすることにほかならないでしょう。かなり無粋ですが、それがコンプラというものなのですから仕方ないと諦める他ありません。暗黙の了解だったことをきっちり明文化しなければならないほどに怪談への注目が集まったのは事実なのですから。

 

過去の炎上事例

 過去にはこの問題に起因する炎上が多数ありました。その中でも象徴的だったのは、シーツを被っただけのお化けと心霊検証と称して対話する、という完全にエンタメに振っていた配信者が「幽霊だと嘘をついている」「イカサマをやっていると宣言しろ」などと叩かれていた事例です。一切、真実だと思えるような演出を行っていなかったのに「視聴者を裏切った」という叩かれ方をしたのは衝撃でした。

 一方、いくらエンタメに振っても信じてしまう人がいるという事実を悪用したケースはメジャーどころに枚挙にいとまがないほどにあります。テレビでお笑いに近い除霊をしていた僧侶が霊感商法でかなりの金を巻き上げていたケース、霊能者としてテレビ出演していた人が番組編成に圧力をかけていたケース、存在しない神職の免許皆伝を与える高額のセミナーを開催しているケースなどです。

 

最近の事例

 最近の炎上事例はこれより複雑化しています。大規模震災の鎮魂として作られた木札が呪いの木札になってしまったと語られたケースでは、震災の犠牲者やその地方の方に失礼という真っ当な批判がされていました。木札は映画のノベルティとしても配布されていたので呪い自体嘘である、という前述のタイプの炎上も複合されていたので焦点が絞りにくくなっていますが、特定の土地の信仰を軽く扱ってしまうというのは怪談だけでなく心霊全般に言える問題でしょう。

 地方で少数の者しか手に入れられない神像を手に入れたコレクターの話も批判している人がいました。神像を信仰する人は肉食を避けるなどの複雑な禁忌を守らなければならないのですが、当然コレクターがしているはずもないという指摘です。これも地方の信仰への蔑視が問題となっただけでなく、特定宗教を外部からどう扱うかという複雑な問題をはらんでいます。

 新興宗教に近い集団を扱った配信者も批判を受けました。山で相手の名前を呼んではいけないというルールを持つ修験者がいるという話や、都市部の公園で老紳士が近隣の人の人生相談に乗っているという話を語っていました。これらは本当であれ嘘であれ特定の土地が想起できる描写がされていましたので、問題をはらんでいるものであることは間違いありません。

 

これから起こるであろう問題

 ところが、ここまで見てきたのはすでに解決策が怪談界隈内部でもとられてきた問題にすぎません。元になった土地や事件がわからないようにすることや、あくまで体験者から聞いた事実を中心に語ることなどが徹底されてきたことは視聴者としても感じます。

 問題は怪談界隈内部で自浄作用が働かないであろう事柄です。それはスピリチュアルと都市伝説です。これらは怪談と近接でありながら、それとは違う非常に新しい厄介事を抱えています。

 まずスピリチュアルですが、怪談配信者の中には「幽霊が見える」と断言している人が複数います。彼らがどこまで自覚しているかはわかりませんが、幽霊という素朴シャーマニズムの教義を信じている人にとっては、霊能者は神職であり権力者です。彼らは一様に「自分には除霊はできない」と言いますが、これは「あくまでごっこ遊びである」ことを暗に伝えているのかと思いきや、尊敬だけ受けようというつもりなのではないかと邪推させられてしまう動画を上げ続けている人もいます。「これからの日本は我欲に囚われた人がはびこる」との主張が繰り返されるとなれば、まさにスピリチュアルの教祖を目指していると言われても仕方がないのではないでしょうか。

 そして都市伝説系YouTuberは、テレビで有名になった都市伝説番組がイルミナティやディープステイトを扱っていることにならい、同様の陰謀論や終末予言を扱っています。都市伝説系YouTuberはかなり冗談であることを強調する傾向はあるものの、政府関係者と称する匿名の人物を登場させるなどの工夫を行っており、それこそQアノン系を信じていまう人々が真面目に見ていることを伺わせるコメントも多々投稿されています。

 彼らと怪談配信者とは頻繁にコラボし、人間関係的にも密接であるようです。ですが、これら二者が軽視できない問題を抱えていることは、日々のニュースからも理解できる通りです。

 

とはいえ解決はしそうもない

 それらの悪影響を詳しく語るのは次回にするとして、これらの問題は怪談界隈では認識されているものの、解決は難しいものと思われます。というのも、怪談の重鎮たちも少しズレた把握をしているようであるからです。

 「メジャー媒体で怪談を語る準備が演者とメディア双方に整っていない」と語っている動画がありました。さらに「オカルトを由来からきっちり検証していく学術的な姿勢」を重視していくような提言もあります。これらは無意味とまでは言わないものの、非常に業界の内輪的な論にとどまっていると思います。

 本質的に必要なのは「オカルトを生活に持ち込むな」という切断の姿勢であり、過度にスピリチュアルな演者や政治活動に繋がるデマを信じさせるような話題を切り捨てていくことです。あくまで怪談は話芸であり、真実めいたフィクションを語り、一時だけ現実が変容したように感じさせる……それを骨子にする他ないのではないでしょうか。

 ですが、それを現状の怪談界隈にやれというのは、やはり残酷に過ぎると書いている自分でも思います。人間関係もありますし、怪しいものを楽しむ姿勢は忘れたくない。さらに信仰を強制的に排除することは別の問題を生み出すことになる……などと難しいことが山積みだからです。

 

まとめ

 そんなわけで、怪談界隈の盛り上がりは嬉しかったものの、個人的にはそろそろ派手に爆発して終わるかも……と危惧しているという話でした。スピリチュアルと都市伝説の弊害が最新の社会問題であることは今年になってはっきりしてきたことだと思うので、それは今年のまとめとして次回に語ろうと思います。