新年のご挨拶。そして、十分も経たずに分かる水城正太郎

 あけましておめでとうございます。本年もよろしく。

 特に何事もなく過ごしてしまった旧年、今年の抱負は少し情報発信をできるようにならないといかんよね、というところにしようかと思っております。

 ある程度は人間というか人格がコンテンツ化しないと生きていけない商売ながら、作家との外交はあまりなく、ネット小説の流れにも乗っておらず、自己紹介が下手を通り越して嫌い、という具合ではいかんだろうと思いたちました。

 さて、手始めにサクッと自身のキャラクターについて語っていくと、以下のようになります。

「十分も経たずに分かる水城正太郎

 作家。デビューは2001年。売れる売れないよりも無茶なことをしているか? を重視していると最近気づき始めた次第。作風はギャグとパロディと不条理。そのせいで読者から「作者にわかってないと思われるのが嫌で感想を公言できない」と複数回言われたことがあるのが悩み。ボドゲとオカルトのウォッチャー。

 こんなところです。ご購入できる&すぐ読める作品の紹介は下記に。それでは今年も頑張ってまいりましょう。

『道化か毒か錬金術

道化か毒か錬金術 (HJ文庫)

道化か毒か錬金術 (HJ文庫)

 

  近刊。金持ち貴族の錬金術師と漁色家女スパイとのバディもの。『パタリロ』やら『エロイカより愛を込めて』やらの影響を多分に受けた現代スパイ物のパロディ・ギャグ。本ブログでも宣伝多数なのでそちらもご参考に。

 

『吸血王の雄々しき竜狩りとそれにまつわるいくつかの物語』

 「最近北欧で発見された1910年に書かれた小説の翻訳(解説付き)」というわけのわからん体裁で書かれたメルヴィルの『白鯨』パスティーシュ。とはいえトラックで車列を組んで龍を狩るという素直な冒険ファンタジーです。中断中ながら長編の分量は書かれています。個人的にはもうちょい評価されてもいいんではないかと思っているものの、作業時間が長かったことによる思い込みかも。

 

『ふたたびカークブライド・ホテルより』

kakuyomu.jp

 大麻をずっとパイプで吸っている主人公が怪異の起こる異国の街に流れ着いてぼんやり過ごす不条理物。連作短編となっております。このタイプのものがずっと書き続けられる人生にならんものかとは思っています。

年末のご挨拶

歳の瀬がやってきた! というと“歳の瀬”という力士でもいるのかと思ってしまう方も多いと思いますが、なんにせよ年末なので、今年を総括しつつ昨今の考えでも記していこうかと思います。

本業である小説の方は、復活こそしたものの、いまだ世間への接続感が無い、というのが正直なところでして、この「世間への接続感」というのは、要するに「ブームに乗れているか?」「時代を掴めているか?」に近いながら、それらのように受け身ではなく「わずかながらでも時代を変えられたか?」のような感覚のことをさしているわけですが、まぁ、これが無かった、残念! という結果でした。

これはずっと昔から存在する問題である以上、考えても無駄というもので、「何度でもトライしろ、ただし生き残るにはブームに“乗らない”ことが最も大事」という先人の教えを守り続けるしかないでしょう。

ブームといえば、現在、歴史上最大の小説家ブームが来ているわけでして、来年の業界の未来予測はむちゃくちゃ難しいんじゃないでしょうか。かつて無いほどの作家が世におり、出版点数は史上最多、でありながら、市場規模は縮小を続けています。しかも、この市場規模は概算すれば、実は競馬市場の半分程度しかないわけで、平均を取れば作家よりも馬の方が価値が高いことになります。マジか。

ついでに競馬にたとえれば、めちゃくちゃな数のレースと競走馬が存在するので、どれに賭けるかよりもそのレースを見たかどうかの方がより問題という奇っ怪なことになっています。一時は「交通整理をする書評家が作家よりも重要になるのでは?」という論もありましたが、まったく現実化しておらず、それも「馬券が当たるなら予想屋やってないわなぁ」という比喩がしっくりくるという次第。しかも、小説の読者はだいたい書いている。走りながら観客席にもいるし、最も金を張り込んでいる賭け手でもある。

そんな現状を見つつ、当座の未来予測をするならば、コンテンツとキャラクターのどちらが生き残るのが小説にとって最適なのか? という点こそが焦点になっていくであろうと考えます。

コンテンツは小説そのもの。作者で買われるというよりは、小説自体が面白いか? とか時流に乗ったか? で買われるということ。旧来のスタイル、というか、現状はこれですね。売れた作品であっても、ほとんどの人は作者名をとっさには答えられない。

キャラクターはここでは小説内に登場するキャラクターのことではありません。作者が作り上げた仮想のガワ。作品を宣伝するための人格のことです。多くの場合作家自身でもあります。過去には私小説が文学だと思われていた時代があり、現在も愛される文豪のイメージはまさにそういうキャラクターがベースになっています。いまでも「偉くて知的で悩んでいる人が人生に大事なことを書いているのだからとりあえず読んで見るか」という具合に小説に接続されています。

この“私小説”に相当する作品スタイルがキャラクターと悪魔合体して新規に生まれるであろう……というのが私の予言となります。例えば現在でもバーチャルユーチューバーが小説を書いたら、その文体や物語のスタイルまで想像できる人もいるわけです。

まぁ、ほぼ与太話ですが……。

ともあれ、来年、自分も頑張ってまいります。

『スターシップ・サムライ』はバカゲーじゃなかった!

このパッケージをご覧ください。

スターシップ・サムライ 完全日本語版

スターシップ・サムライ 完全日本語版

 

普通、バカゲーだと思うじゃないですか。誤解された日本観を押し出すことでエクスプロイテーションして、ゲーム部分はおざなり、みたいな。しかし、実際にプレイすると、これがゲーム愛と世界観へのこだわりにあふれた良ゲーなのでした。

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とはいえ、カードの裏面はコレ

ゲーム内容は四つある星系を武力支配し、それによって同盟国への影響力を上下させるというもの。最終的なポイントは影響力のみで、軍事勝利は決定的なポイント獲得方法ではないあたりが面白いところ。

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ポイント計算はこのボード

行動は1~4の数値を持つチットを配置することで示すのですが、この数値が行動の強度を表しており、数値分影響力を上下させる行動があることが肝です。

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戦闘ボード

都合四回まわってくるターンに星系を支配していると、カードに応じた影響力の増減があり、うまいことやるとドバっと影響力が動くのです。

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たしかマサムネとシンゲン

この出来の良いフィギュアがサムライ・メック。これが配置されると、戦闘機ごときは消し飛びます。なお戦闘機もメックも破壊されても次ターンには復活するので、各ターンまんべんなく配置に悩む必要があります。ポイントレースのトップを走っているプレイヤーを蹴落とす必要があるものの、戦闘カードやメック能力の相性によって協力できないことも多いのが面白いところ。

難点はちょっとプレイするだけで壊れカードとわかるものがあること。政略結婚を二枚引いたらどうにもならんのではないでしょうか。まぁ、身内でプレイするときはそれらを抜くだけで楽しくなりますので、それほど問題じゃないですね。

フィギュアやカードの美しさ、明快にして拡張性もバッチリあるルール、こだわり抜かれた世界観など見逃すにはなかなかに惜しいゲームです。ぶっちゃけルールをパクってガンダムにすれば、めっちゃ売れる気がします。フィギュアを塗りたい人にもオススメです。

『へレディタリー/継承』

なんか間も空いたし、映画の感想でも書きますかねってなわけで、『へレディタリー/継承』でございます。ネタバレありになるんで、予告を貼りつつ、少し行をとります。


【超恐怖】これが現代ホラーの頂点 11.30公開『ヘレディタリー/継承』90秒本予告

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

はい。

この文を書いておこうと思ったのは、「なんや、これ。怖くないし、わけわからん」という感想をいくつか見たからです。「あの展開だから、そりゃあなぁ」と思う一方、見方を解説されれば「面白い!」に反転する人もいるかもしれないと思ったからです。

本映画についての考察はすでに他のブログでいくつも読むことができます。電柱にマークがあること。信者たちが最初の葬式に登場していること。それらの本筋を明快にする解説など参考になるものも多いです。ですが、ここではそれが理解できたところで「だからどうした。つまらんことに変わりはない」と思ってしまった人に向けてということになります。

結論から書いてしまえば、この映画は「『エクソシスト』シリーズへのアンサーとして見よ!」となります。オマージュシーンも多く、特にガラスを突き破るシーン、ハサミを使うシーン、天井に貼り付いているシーンは明確です。ってか、主に『エクソシスト3』ですね。

ただオマージュに気づいたからって面白くなるはずもありません。『へレディタリー』は『エクソシスト』が語ろうとして上手く行っていないテーマを語り直したところにポイントがあります。それは「ひでぇ現実より悪魔信仰とかオカルトパワーとかの方が良いよね!」というメッセージです。

エクソシスト』では執拗に神の不在が描かれるものの最終的に信仰が勝利しています。1では曖昧に描かれた信仰の勝利ですが、3では作り手が別人になったため、ホラー表現としては秀逸だったものの信仰の勝利はより明確になっています。

『へレディタリー』はそれに「ノー!」を強く突きつけます。素直に見た場合、悪魔側の完全勝利のストーリーですし、他の解釈をした場合でも(完全に妄想、あるいはピーターは生きている等)現実から逃避して終わる構造になっていますね。

だから「怖くない」と思ってしまった人は、実は十全にメッセージを受け取ってしまった人でもあるのです。金銭的に恵まれながらも不全感しかない家庭、アレルギー、俗っぽいだけで逃避先にすらならないパーティー、不良的というにも足りない大麻、無信仰、とどめに本当に無意味な死。それらのすべてに意味を与えてくれるのが、実は悪魔の計画だった、というストーリーです。それにより、つまらない死や不幸が必然として輝きを放つ……。本物の超常現象がはじまってからラストまでは、救済の物語として微笑みとともに安心して見るのも正しい見方のひとつと言えるでしょう。

とりあえず、面白くなかったという人のために、でした。

『巨神ゴーグ』THEカードゲーム

すいません、「THEカードゲーム」は勝手につけました。新スパロボの発表があった中、「こいつだって出たことあるんだぜ(だよね?)!」とばかりにゴーグのゲームを紹介します。さすがに昔すぎる&ゲーム内容により本作のレビューなんぞこれまでもこれからもネット世界に存在しないものであることは間違いないと思われます。(追記:他にもレビューがあった!)

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なんとこれはアニメ『巨神ゴーグ』放送終了直後くらいに出た大型ボックス入りのカードゲームです。下に写っているカードを見ておわかりの通り、厚紙のシートをちぎる形式のカードですね。なお、印刷はカードごとにけっこうズレており、ガン付どころの騒ぎではありません。困ったね。

ゲーム内容は二人対戦。カードで出てくる地形をゴーグが踏破していき、それをガイル軍側が邪魔するというもの。

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八十年代に非対称型ゲームとは中々やるもんだと感心します。おそらくはスティーブ・ジャクソン・ゲームズの『オーガ』を参考にしたんだと思いますが、あちらはシミュレーション・ゲームなので、カード化したことに(カード印刷技術が一般化していない時代に!)敬意を表するしかありません。システムは移動と攻撃のカードを双方が同じ山からドローすることに特徴があります。ゴーグは死なないので、戦闘結果は“後退”しかなく、ガイル軍側の勝利条件は「ゴール前に山札を尽きさせる」なのです! ガイル軍側は山札を枯らしたいのだが、そちらにリソースを割くとユニットの数が手札制限により減ってしまうというジレンマがあるわけです。ゴーグ側は逆に移動したいのだけど、ドローしまくると死が近づくというわけ。

しかし、すごいのはここまで。地形が百枚(四列なので二十五行並ぶ)、移動、攻撃のカードが百五十枚。手札はゴーグ十枚、ガイル軍十五枚……なのですが、ドローが一枚! もう一度。ドローが一枚!

なおカードの使用枚数は無制限なので、面白かったのは一ターン目のみ。その後は、お互い何もせずドロー、移動が出たときだけゴーグが歩き、ガイル軍はゴーグの場所にヘリを投下する以外にやることなし(軍が足止めになると書いていないため)! カード枚数もあいまって、ゲームが成立していません。

「な、なんじゃ、こりゃ……」とマニュアルにあったライナーノートを見ると言い訳が山のように書いてある。さらには「バランスが悪いと思ったときは枚数を調整してください」とまで。いや、テストプレイすらしてないバランスなんじゃけど……。

とはいえ、事情を推測するに、当初はバランスの良い枚数で作られたゲームだったのではないでしょうか。ところが、当時はボックスタイプで高価な商品として販売することしかできなかったため、カードを増やすことになり、泣く泣くこうなったのだろう……ということかと。

諸々残念な作品ですが、まぁ手に入れる方法はほぼないので、みなさんが被害に遭うことはないと思われます。『巨神ゴーグ』のアニメを見ることは配信サイトで可能ですが、ゴーグは岩を投げるのが主な戦闘方法なので、見せ場は岩投げ、となります。

見よう『巨神ゴーグ』!

第三次世界大戦

強烈なタイトルのわりにはボードゲームの話。

部屋から昔のシミュレーションゲームを発見し、マップを並べてみたよ! というだけで、そのタイトルが『サード・ワールド・ウォー』!

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タバコの箱との比較をご覧ください。でかい!

テーマはワルシャワ条約機構NATOとの戦争。その名前でお気づきの通り、1980年代に想像された「1990年代に戦争が起こったら」というテーマなのです。このマップのヘックスひとつひとつにユニットを置いて指で動かし部隊を行動させるという気の遠くなるようなプレイを強いられます。おそらくフルでプレイしたら二日三日かかると思われます。いやー、昔のゲームってすごいですね(お前が買ったんや)。なお未プレイ。

情報勾配を利用したビジネスモデルと創作の関係

情報勾配を利用して稼ぐビジネスモデルというのがあります。人々の間にどうしても存在してしまう情報リテラシーの差を悪用し、情報が足りない人を騙して金を吸い上げるモデルのことです。具体的には情報商材セミナー商法、水素水などの疑似科学商品、やや広く取れば新興宗教も含まれるでしょう。いずれもその分野において一定以上の情報リテラシーのある人であれば買わない商品であり、売る側も騙すことが前提になっている商売ですね。

ここまで読んだ時点で何のことが書いてあるかわからない方は、すでにカモになっていますので、この先を読む意味はありません。それ以外の方には「イケダハヤトに感化され職を捨ててブロガーになる人に足りないのは、金融商品と顧客商売についての一般的な情報だ」という認識である、という前提でこれから話を進めるのだとご理解ください。洗脳とか同調圧力とかについてはここでは考慮しません(ツアー商法や押し売りは情報勾配を利用していないと考えます)。ともあれ、ここで書きたいのは、「情報勾配を利用して稼ぐビジネスモデルを嫌いすぎるあまり、小説やその他の創作ができなくなる」という現象についてです。

創作を志したとき情報を集めるところからスタートする人は多いでしょう。ある程度人生経験を積んでから創作をしようと思ったときは、すでに多数の情報を知っているのも当然のことです。ここで言う“情報”とは、もちろん上記にあるように、情報勾配モデルに引っかからない程度の常識、という意味ですが、創作においてはそれだけではありません。「このアイデア、すでに多数あるんだよなぁ」と知ってしまうと、それを書きにくいというものは情報の弊害の代表的なものとして知られていますね。
しかし、それは情報の弊害であって、情報勾配を利用したくないという弊害ではありません。まず創作物における情報勾配がどういうものか例をあげていきましょう。小説でいえば、次のような読者の声に情報勾配を見いだせます。

「重厚な戦記物でありSFでもある本作はもはやライトノベルとは呼べない」

「小説は人間を描き人生について考えさせる教養でなければいけない」

これらを情報勾配だと理解できるかどうかで、またこの文章のハードルは上がっているわかですが、ともあれ、これらの主張を行う読者(あるいは読者ですらない)は、小説についての情報が少ないからこのように言っているわけです。

一方、作る側としては、そのような読者が存在することに気づいてしまったとき、次のような悩みを抱えてしまうことになります。

「そうかグロ描写したり戦争であっさり人が死んだりとにかく悩んだりする話にすれば小説の格が上がったように思われるならそうすればいいんだ……だが、それでは情報が足りない人を騙しているだけじゃないか!」

この悩みは、美少女キャラの表紙で売りたいとか、タイトルで騙したいとか、そのようなケースとは別種のそれのように思えます(少なくとも自分には)。そして、売れ線を書いて読者に寄り添うべきか、作り手の信念と小説の芸術性を貫くべきか、という問いとも違うと感じます。

小説も、漫画も、映像作品も、物品としての価値は存在しません。それらは情報商材となんら違うところはないわけです。面白さだけをその価値としているのに、情報勾配の要素がそこに入ってしまったら……。

小説を例にすると角が立つので現代アートでいえば「“紛争地域で使用済みとなった銃器を溶接して作ったオブジェ”を自作として展示することを恥と感じるかどうか」が問題の中核であり、それを恥と思う感情が過剰になり過ぎて創作ができなくなっている現象もあるのではないか? 例をあげると単純ながら、根深い問題かもしれません。
これらの感覚を読者の側から見たものが、盗作疑惑や文学論争、トレス騒動や作画崩壊とされるそれらなのでしょう。

これからも情報勾配が存在し続けることは間違いありません。個々人でそれを乗り越えなければならないし、そのためには開き直るか、技術を磨く以外に方法はないのですが、今後、この問題についてさらに考えていく必要はありそうです。